
美しい歌声が響く合唱団という空間に、最も見えにくい形で権力の暴力が潜んでいた。実際の事件にインスパイアされたチェコ映画『ブロークン・ヴォイス』が、9月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開される。2025年チェコ映画批評家賞ベスト映画賞受賞、2026年チェコアカデミー賞主演女優賞受賞 ── 静かに、しかし深く刺さる一作だ。
告発の映画ではない、沈黙が生まれる瞬間を描いた映画だ
1984年から2004年にかけて少なくとも49人が被害を受け、2004年にプラハの名門児童合唱団「バンビーニ・ディ・プラーガ」の指導者が逮捕されたという衝撃の実際の事件。しかし監督のオンドジェイ・プロヴァズニークは、この物語を告発や断罪として描くことをあえて選ばない。
カメラが寄り添うのは13歳の少女カロリーナ。カンティチェラ少女合唱団のBチームに所属し、選抜チームの姉の背中を追いながら、いつか「選ばれること」を夢見ている。指揮者のヴィテクに目をかけられ、少しずつ「特別」に扱われていくこと ── それはカロリーナにとって自分の価値が認められた証であり、大人の世界への扉のように映る。観客は彼女の無自覚な感情と、周囲に漂い始める不穏な気配とのズレを追体験しながら、権力の濫用がいかにして日常の関係に紛れ込み、見えなくなっていくかを目撃することになる。
16ミリフィルム、ライブ録音の歌声、アースカラーの世界
演出は一貫して抑制的だ。16ミリフィルムで撮影された映像は、ざらついた粒子とバーガンディ、ブラウン、アンバーのアースカラーが1990年代初頭のチェコの空気をそのまま呼び起こす。共産主義体制が終わり、西側への扉が開きはじめた時代 ── 自由と無防備な欲望が混在するあの感覚が、色彩と光の中に滲み出ている。
そして最も重要な選択が、合唱シーンの多くを生の歌声でライブ録音したことだ。息づかい、緊張、わずかな乱れ ── それがそのまま画面に刻まれることで、音楽は美しさだけでなく身体的な重みを帯びる。澄んだハーモニーが重なるほど、その背後に潜む不協和音をより強く意識させる構造が、この映画のすべてを貫いている。




撮影当時13歳、チェコアカデミー賞を受賞した新星
カロリーナを演じたカテジナ・ファルブロヴァーは、これが映画初出演。撮影当時13歳で、実際にキーン少年少女合唱団(チェコ少年少女合唱団)のメンバーでもある彼女は、劇中のすべての歌曲を自身で歌唱した。喜びと不安、誇らしさと違和感を同時に映し出すその表情豊かな瞳は、主演女優としてチェコアカデミー賞を受賞させるに十分な説得力を持っていた。対する指揮者ヴィテクを演じるユライ・ロイは、魅力と恐怖が同時に立ち上がる人物像を体現し、単純な「悪役」には回収できない権力者の複雑さを描き出している。




「安全なはずの場所」への問い
歌うことを求められた少女たちは、気づかないうちに自分自身の声を失っていく ── この映画が照らすのはその喪失の過程だ。#MeToo以後の価値観で過去を断罪するのではなく、なぜ声を上げられなかったのか、なぜ沈黙が長く続いたのかを、少女の経験の内側から静かに問い直す。その問いはあらゆる「守られるべき空間」に潜む危うさとして、いまを生きる私たちに届く。

『ブロークン・ヴォイス』
監督・脚本:オンドジェイ・プロヴァズニーク
出演:カテジナ・ファルブロヴァー、ユライ・ロイ、マヤ・キンテラほか
音楽:ピョニ、エイド・キッド
2025年/チェコ/106分
配給:クレプスキュール フィルム
© endorfilm s.r.o. Punkchart films s.r.o. Česká televize innogy Česká republika a.s. Barrandov Studio a.s. 2025
9月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
