[連載]アフリカ発、世界を鳴らす 第1回 ── 瓦礫の上で踊れ:アンゴラ、クドゥロという叫び

1992年、アンゴラの首都ルアンダ。

ポルトガルからの独立を果たして17年。前年の和平合意によって終結へ向かうかに見えた内戦は、同年の選挙を境に再び激化しようとしていた。

独立とほぼ同時に始まった内戦は、都市と農村を分断し、多くの人々を故郷から追い立てた。地方から避難してきた人々が流れ込んだルアンダの周縁では、住民自身の手によってインフォーマルな居住地域が拡大していった。電気や水道などのインフラが十分に整わない場所も少なくなかった。

その都市の片隅で、若者たちは踊っていた。

速く、硬く、地面を叩きつけるように。身体を折り曲げ、転び、跳ね、撃たれたように倒れ、また立ち上がる。その動きは洗練された社交ダンスとはほど遠い。けれど、そこには戦争の時代を生きる身体にしか生み出せない、切迫したエネルギーがあった。

やがて、この踊りと音楽は「クドゥロ(Kuduro)」と呼ばれるようになる。

その名称は、ポルトガル語の俗な表現「cu duro」に由来し、直訳すれば「硬い尻」を意味する。だが本当に硬かったのは、尻ではなく、この音楽が生まれた時代そのものだったのかもしれない。

ジャン=クロード・ヴァン・ダムから始まった踊り

クドゥロの起源について、すべてを一人の人物に還元することはできない。それでも、その誕生を語るうえで欠かせない名前がある。

アンゴラのミュージシャン、トニー・アマドだ。

クドゥロの創始者の一人とされ、自身もその発明者を名乗るアマドによれば、着想のきっかけは1989年のハリウッド映画『キックボクサー』だった。

映画の中で、ジャン=クロード・ヴァン・ダム演じる主人公は、酒に酔った状態でバーのフロアに立ち、どこか硬く、ぎこちない動きで踊り始める。やがてダンスは格闘へと変わり、身体を揺らしていた男が、襲いかかる相手を次々となぎ倒していく。

踊りと闘いが、ひとつの身体の中で切り替わる。

アマドは、この奇妙な場面に新しいダンスの原型を見いだしたという。ヴァン・ダムの硬く不器用な身振りが、踊り方だけでなく、「硬い尻」というクドゥロの名称にもつながったとされている。

重要なのは、クドゥロでは音楽より先にダンスが存在したと語られている点だ。

アマドをはじめ、多くの関係者がこの順序を強調している。まず身体の動きがあり、その動きを駆動するためのビートが後から生まれた。クドゥロは「曲に合わせて踊る音楽」というよりも、「踊りを成立させるために音楽が組み立てられた」ジャンルだったのである。

だからこそ、クドゥロでは歌詞以上にリズムと身体が前面に出る。

ヴォーカルは高速のビートへ挑みかかるように連射され、ときには言葉の輪郭さえリズムの中へ溶けていく。何を歌っているのか理解できなくても、身体はその命令を理解する。足を踏み鳴らせ。腰を振れ。倒れろ。そして、もう一度立ち上がれ。

クドゥロのダンスには、ヒップホップのポッピングやロッキング、アンゴラの伝統舞踊やカーニバルの動き、さらには演劇的な身振りまでが入り込んでいる。

地面を這う。脚を失ったかのように腿で踊る。松葉杖を思わせる動きをする。銃で撃たれたように倒れる。

そうした動きに、アンゴラ内戦の記憶を読み取る研究者もいる。ただし、クドゥロを踊る人々が、常に自分たちを戦争の被害者として表現しているわけではない。むしろ、悲劇的な身体のイメージさえ自分たちの踊りへ取り込み、圧倒的な技巧とユーモアに変えてしまう。

痛みを再現するのではない。

痛みの形を奪い返し、自分たちの動きに変えるのだ。

そこにあるのは、悲しみに沈む身体ではない。倒れても、次の瞬間には立ち上がり、観客を熱狂させる身体である。クドゥロは戦争について瞑想する音楽ではなく、戦争の時代に、それでも喜びを生み出すための音楽だった。

内戦期の都市を駆け抜けた高速のビート

クドゥロの大きな特徴は、その速さにある。

多くの楽曲は130〜140 BPM前後で進み、ときにはそれを超える高速のビートを持つ。ヴォーカルは追い立てられるように言葉を吐き出し、電子音は鋭く切り刻まれ、反復される。

しかし、この速度を単純に「内戦が生んだ」と考えるのは正確ではない。

クドゥロの速さは、ダンスの発展に加え、さまざまな地域から届いた音楽がルアンダで交差した結果でもある。ヨーロッパや北米のハウス、テクノ、カリブ圏のソカやズーク、さらにアンゴラのセンバやキゾンバ、カーニバル音楽のカズクタ。輸入盤や放送、海外渡航、移民のネットワークを通じて運ばれてきた音が、現地のリズムと混ざり合った。

それは、西洋の電子音楽をそのまま模倣することではなかった。

外から届いた機械的な音を、アンゴラの身体が踊れる形へと作り替えること。植民地支配によって生まれた人と文化の回路を逆方向に使い、ルアンダ独自の音楽として再構築すること。それがクドゥロの出発点だった。

その重要な舞台となったのが、ルアンダ周縁に広がる「ムセケ(musseque)」と呼ばれるインフォーマルな居住地域である。

長期化する内戦によって地方から人口が流入し、ルアンダは急速に膨張した。正規の都市計画から外れたムセケでは、生活に必要なものの多くが、住民自身の手で作られなければならなかった。

A Look at the Musseques of Luanda

音楽も同じだった。

クドゥロは、大規模なレコード会社や国営メディアの中から生まれたのではない。簡素なスタジオで作られ、友人同士でコピーされ、市場やミニバス、路上を通じて拡散していった。

その流通を支えた場所のひとつが、かつてルアンダに存在した巨大な屋外市場、ロッケ・サンテイロだった。正規の経済圏の外側に広がる市場で、カセットや日用品とともに音楽も売買された。さらに「カンドンゲイロ」と呼ばれる乗り合いミニバスも、街の各地へ新しい曲を運ぶメディアとなった。

クドゥロは、国の公式な文化制度を待たなかった。

ラジオで流れなくても、市場で鳴らせばいい。レコード会社が扱わなくても、コピーして手渡せばいい。クラブに出演できなくても、路上で輪を作ればいい。国家のインフラが十分に機能しないなら、自分たちで別のインフラを作ればいい。

2002年、長く続いたアンゴラ内戦が終結する。

その後、石油景気を背景にアンゴラ経済が急成長する一方で、比較的安価なパソコンやインターネット環境、海賊版を含む音楽制作ソフトがルアンダにも広がっていった。

なかでも大きな影響を与えたのが、現在のFL Studioの前身にあたるFruityLoopsだった。ループやリズムパターンを画面上で組み立てられるこのソフトは、高価なスタジオ機材を持たない若い制作者たちにも、新しいビートを作る道を開いた。

簡素なパソコンでビートを作り、携帯電話のBluetoothで楽曲を交換し、街角やミニバスで鳴らす。クドゥロは、2000年代のデジタル環境と結びつくことで、さらに多くの若者へ開かれていった。

歌われる内容も一様ではない。

踊り方を指示する言葉、地区同士の対立や自慢、恋愛、性、貧困、政治、社会への批判。内戦末期から終結直後には、平和や国家再建、未来への期待を歌う楽曲も登場した。

クドゥロは、アンゴラの苦難を説明するためだけの音楽ではない。

笑いも、挑発も、誇張も、競争もある。そこで鳴っていたのは、「かわいそうな人々の音楽」ではなく、混乱した都市の中で自分たちの存在を最大音量で知らせるための音楽だった。

ルアンダからリスボン、そして世界のクラブへ

2000年代に入ると、クドゥロはアンゴラの外でも急速に存在感を増していく。

重要な中継地点となったのが、旧宗主国ポルトガルの首都リスボンと、その周辺都市だった。

ポルトガルには、アンゴラをはじめ、カーボベルデ、ギニアビサウ、サントメ・プリンシペなど、旧植民地にルーツを持つ人々が暮らしている。アマドーラやキンタ・ド・モショなど、リスボン都市圏の移民コミュニティでは、若いプロデューサーたちがクドゥロをはじめとするアフリカ由来の音楽を、独自の電子音楽へと組み替えていった。

そこで次第にジャンル名として定着したのが、「バティーダ(Batida)」である。

Batidaとは、ポルトガル語で「ビート」や「打撃」を意味する言葉だ。もともとアンゴラの制作現場では、特定のジャンル名というより、リズムやトラックそのものを指す表現として使われていた。

その輪郭は現在も固定されていない。

クドゥロ、キゾンバ、タラシーニャ、ズーク、フナナーなど、アフリカとカリブに連なる複数のリズムが混ざり合い、制作者ごとに異なる姿を見せる。だからバティーダは、ひとつの決まったビートというよりも、アフリカ系ディアスポラの人々がリスボンで作り上げた、複数の電子音楽を包み込む名称に近い。

このルアンダとリスボンの往復運動を、世界へ強烈に印象づけたグループが、ブラーカ・ソン・システマだった。

リスボンを拠点に活動した彼らは、2008年に「Sound of Kuduro」を発表する。

楽曲には、アンゴラの重要なプロデューサーであるDJ Znobia、現地のシンガー/ラッパーであるSaborosaとPuto Prata、そしてスリランカ系イギリス人アーティストのM.I.A.が参加した。ミュージックビデオはアンゴラで撮影され、街の風景とダンサーたちの身体を世界の視聴者へ直接届けた。

「Sound of Kuduro」は、ルアンダで育った音が、リスボンを経由して世界のクラブやフェスティバルへ到達した瞬間を象徴している。ただし、その移動は単純な成功物語ではない。

欧米のメディアでは、クドゥロはしばしば「戦争と貧困の中から生まれた音楽」として紹介された。その一方、クラブでは、テクノやグライムと並ぶ未来的で攻撃的な電子音楽として受容された。

アンゴラでは、日常の娯楽であり、地域同士が競い合う音楽であり、ダンサーが名声を獲得する手段でもある。それが国外へ出ると、「過酷なアフリカから現れた未知の音」へと読み替えられる。もちろん、クドゥロが内戦や貧困と無関係だったわけではない。

しかし、それだけを強調すると、この音楽を生み出した人々の創造性やユーモア、欲望、競争心、純粋に踊ることを楽しむ感覚が見えなくなる。苦境から生まれた音楽であることと、苦境を説明するためだけの音楽であることは、同じではない。

ここに、アフリカ発のダンスミュージックを「地政学」から考える意味がある。音楽ジャンルの成立を語るとき、私たちはしばしば、その物語をひとりの天才や一曲のヒットへ還元してしまう。だがクドゥロを形づくったのは、才能ある個人だけではない。内戦による人口移動。植民地支配が残した言語と文化の回路。ムセケに広がった非公式経済。市場とミニバスによる流通。安価なパソコンと海賊版ソフト。アンゴラからポルトガルへ渡った移民。そして、そこで育った次の世代。

音楽は、真空の中では鳴らない。それが鳴った土地の地図、そこに引かれた国境線、そこを移動した人、物、金、記憶を追うことで、初めて聴こえてくる音がある。クドゥロは、瓦礫の前で立ち止まる音楽ではなかった。傷ついた身体を踊る身体へ変え、機能しない都市の中に別の回路を作り、やがて海を越えて世界を揺らした。倒れたなら、また立ち上がればいい。立ち上がれないなら、その姿勢のまま踊ればいい。

クドゥロの高速のビートは、いまもそう叫び続けている。

次回は、南アフリカのダーバンへ移る。アパルトヘイト後の都市に沈んだ低音──ゴム(Gqom)の物語である。

参考曲

Dog Murras「Kamussekele」(2000年)
内戦時代のルワンダで鳴っていた、初期クドゥロの空気をそのまま閉じ込めた一曲。粗いビートと切迫したフロウに、当時の機材事情がそのまま刻まれている。

Buraka Som Sistema feat. M.I.A., DJ Znobia, Saborosa, Puto Prata「Sound of Kuduro」(2008年)
ルワンダの音がリスボン経由で世界のクラブに届いた瞬間を象徴する曲。M.I.A.参加により、クドゥロが「貧しさの音楽」から「最先端のクラブミュージック」へと読み替えられていく過程が体感できる。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。

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