[音の地球儀]第33回 ── 世界でいちばん危険なダンス:アルゼンチン、タンゴと欲望の音楽

もし「世界で最も情熱的な音楽は何ですか?」と聞かれたら、多くの人がタンゴを思い浮かべるだろう。男女が抱き合い、鋭く足を交差させ、息を読むように踊る ── そこには愛がある。嫉妬もある。駆け引きもある。そして少しの危険もある。

タンゴは単なるダンス音楽ではない。それは、人間関係そのものを音楽にした芸術だ。今回の「音の地球儀」は、南米の大都市へ向かう。舞台は、ブエノスアイレス。港町から生まれ、世界を魅了した音楽 ── タンゴの物語である。

タンゴは“移民の音楽”だった

現在のアルゼンチンを代表するタンゴだが、そのルーツは意外なほど雑多だ。19世紀後半、ブエノスアイレスには世界中から移民が押し寄せた。イタリア人、スペイン人、東欧系移民、アフリカ系住民、彼らは新天地を求めて海を渡った。

しかし現実は厳しい。言葉も違う。仕事もない。故郷にも帰れない。そんな人々が集まる港町の酒場や安宿で、タンゴは生まれた。

つまりタンゴとは、“都会で生きるための音楽”だったのである。

最初は“危険な音楽”だった

今では高級劇場でも演奏されるタンゴだが、当初は決して上品な音楽ではなかった。むしろ逆だ。酒場。歓楽街。労働者街。そうした場所で演奏されていたため、上流階級からは敬遠されていた。

男女が密着して踊るスタイルも衝撃的だった。当時としてはあまりにも近い。あまりにも官能的だった。

つまりタンゴは、“ちょっと不良っぽい音楽”としてスタートしたのである。

参考曲①

タンゴ史上もっとも有名な一曲。世界中のタンゴ楽団が演奏している。タンゴを初めて聴く人にもおすすめ。まずはこの曲から入ると、タンゴ特有の緊張感がよく分かる。

タンゴは“会話”である

タンゴを理解する近道は、“ダンスを見ること”だ。驚くほど会話に似ている。男性がリードする。女性が応答する。しかし命令ではない。女性は常に相手の動きを感じ取りながら、自分の表現も返している。

つまり、“一方通行ではなく、対話”なのだ。

これがタンゴの魅力である。だから上手なタンゴは、踊りというより会話に見える。

バンドネオンの泣き声

タンゴの主役は何か。答えはバンドネオンだ。アコーディオンに似た蛇腹楽器で、「切ない、「荒々しい」、「情熱的」、という不思議な音色を持つ。

その響きは、まるで誰かが笑いながら泣いているようだ。タンゴの哀愁の大部分は、この楽器から生まれている。

参考曲②

Aníbal Troilo “Pichuco” と彼の楽団による演奏。1918年にフィリベルトが作曲したタンゴ曲。バンドネオンの魅力が分かりやすい代表曲。タンゴの色気と躍動感を同時に味わえる。

タンゴの王様、カルロス・ガルデル

タンゴを世界に広めた人物として欠かせないのが、Carlos Gardelである。

1930年代、彼はタンゴ界最大のスターとなった。甘い歌声。端正なルックス。圧倒的な存在感。現在でもアルゼンチンでは伝説的人物として愛されている。

現地にはこんな言葉がある ── “ガルデルは毎日少しずつ上手くなる”亡くなって何十年も経つのに、である。それほど愛されている。

参考曲③

映画好きなら聴いたことがあるかもしれない。数多くの映画で使われた名曲。タンゴのロマンチックな魅力が凝縮されている。

タンゴ革命

1950年代になると、一人の天才が現れる。その名は、Astor Piazzolla。彼はタンゴを大きく変えた。それまでのダンス音楽だったタンゴを、ジャズ、クラシック、現代音楽と融合させたのである。

当初は大批判された。「これはタンゴじゃない」と言われた。しかし今では、彼こそ20世紀タンゴ最大の革新者と評価されている。

参考曲④

タンゴ史を変えた一曲。現代的でエネルギッシュ。タンゴ初心者にも聴きやすい。

なぜタンゴは世界中で愛されるのか

理由はシンプルだ。タンゴには、

  • 恋愛
  • 別れ
  • 憧れ
  • 嫉妬
  • 情熱

が全部入っているから。つまり、“人間ドラマの全部盛り”なのである。国が違っても、言葉が違っても、誰もが共感できるに違いない。

ブエノスアイレスの夜

夜になると、ブエノスアイレスのどこかでタンゴが流れる。小さなバー。古い劇場。街角の広場。そこでは今日も誰かが踊っている。

派手なステップではない。大切なのは相手を感じること。呼吸を合わせること。音楽を共有すること。

人生はタンゴに似ている

タンゴには正解がない。相手の動きを読み、時には迷い、時にはぶつかる。そしてまた歩き出す。

だからタンゴは難しい。しかし面白い。それは人生とよく似ているからだ。

情熱は港から生まれた

カーボベルデのモルナは海の彼方を見つめていた。ポルトガルのファドは運命を抱きしめていた。そしてアルゼンチンのタンゴは、“目の前の相手と向き合う”。

恋人かもしれない。ライバルかもしれない。あるいは人生そのものかもしれない。港町ブエノスアイレスで生まれたこの音楽は、今日も世界中の人々を踊らせ続けている。

情熱とは、大声で叫ぶことではない。相手の呼吸を感じながら、一歩を踏み出すこと。タンゴはそのことを、100年以上前から教えてくれているのである。

Sera H.:時代を越える音楽案内人/都市と田舎、過去と未来、東洋と西洋。そのあわいにいることを好む音楽ライター。クラシック音楽を軸にしながら、フィールド録音やアーカイブ、ZINE制作など多様な文脈で活動を展開。書くときは、なるべく誰でもない存在になるよう心がけている。名義の“H”が何の頭文字かは、誰も知らない。

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