[妄想コラム]音楽とは何か ── 想像力のかたち、あるいは無意識との対話

音楽とは、いったい何なのだろうか? この問いはあまりにも根源的で、あまりにも日常的で、そしてあまりにも「答えがない」問いである。我々は音楽を「聴く」ことができる。しかし、音楽を「見た」り、「持った」り、「味わった」りはできない(少なくとも、比喩でないかぎり)。だからこそ音楽は、芸術の中でも最も抽象的で、同時に最も本能的な表現なのかもしれない。

「音楽とは何か?」── その問いに、いまここで“垂直”に、つまり歴史や理論の軸から正攻法で答えることもできるだろう。だがこのコラムでは、あえて“水平思考”で、つまり常識を疑い、視点をずらし、音楽を「別の角度」から捉え直してみたいと思う。

音楽とは、「音」の芸術ではなく、「間」の魔法である

多くの人は「音」が音楽の本質だと考える。ド、レ、ミ、ファ、ソ。コード、リズム、テンポ。だが本当にそうだろうか。音楽において、音が鳴っている時間よりも、実は「音が鳴っていない時間」のほうが重要なのではないか。沈黙 ── それはただの無音ではなく、音の存在を際立たせるための余白だ。

たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」。この曲では、演奏者はただ“何もしない”という演奏をする。だがそれを聴く観客の耳には、空調の音や椅子のきしみ、隣の人の咳払いまでもが「音楽」として立ち現れる。つまり、音楽とは「聴く態度」そのものでもあるのだ。

また、ビル・エヴァンスのピアノには、「音と音の間」の沈黙の美学がある。彼の代表作「Peace Piece」などを聴くと、まるでピアノの音が空気の粒と会話しているかのようだ。音があるから音楽なのではない。音が「どこで止まるか」「どこで待つか」によって、音楽は命を吹き込まれる。

音楽とは、タイムマシンである

我々が音楽を聴くとき、単に現在の音を享受しているだけではない。音楽は記憶を呼び起こし、未来を想像させる力を持っている。メロディは、遠い過去の情景を突然蘇らせることがある。リズムは、まさに「いまこの瞬間」を際立たせ、時間の流れを一時停止させる。そしてハーモニーは、言葉にならない未来への予感や希望を導く。

クラブで鳴るフォー・テットやフローティング・ポインツのビートが、深夜の自我を解放していくのはなぜだろうか。それは、反復するループが聴く者を「今」へ引き戻すからだ。身体がビートに溶けて、思考は“いまここ”に凝縮される。

逆に、坂本龍一の「Aqua」や「Andata」などは、時間の粒子をゆっくりとほどいていくような響きを持っている。何も起こらないようで、すべてが起こっている。こうした音楽は、人間の時間感覚そのものを拡張する。

音楽とは、時間という不可視のものを操る芸術である。聴く者を過去にも未来にも、あるいはどこでもない場所へも連れていくことができる装置 ── それが音楽だ。

音楽とは、翻訳できない言語である

言葉は、文化に左右される。翻訳され、解釈され、時に誤解される。しかし音楽は、翻訳不可能なまま、あらゆる文化や民族の感情を伝播することができる。それが音楽の奇跡であり、魔法である。

たとえばフラメンコ、タブラ、尺八、アフリカンパーカッション ── それぞれの音楽はその土地の文脈を背負っているが、だからといって「それを知らなければ何も感じない」わけではない。耳が先に反応し、身体が共鳴し、言葉にならない理解が訪れる。

それはまるで、人間が“前言語的”な状態に戻る瞬間でもある。アニマル・コレクティヴの実験的な音楽や、ビョークの生物的なボーカル、あるいはドン・チェリーのワールド・ミュージック的感性は、「意味」ではなく「感覚」に訴えかけてくる。
つまり、音楽とは「話す」のではなく、「わかる」ものなのだ。

音楽とは、誰にも属さないアートである

音楽は、演奏者のものでもなければ、作曲者のものでもない。なぜなら音楽は、聴く者の中で初めて完成するからだ。

絵画は、目に見える。しかし音楽は、耳と記憶の中にだけ存在する芸術である。同じ曲を聴いても、人によってまったく違う情景が立ち上がる。まさに、ひとりひとりの心の中にパーソナルな宇宙を開く鍵のような存在 ── それが音楽なのだ。

それゆえ、アーティストでさえ、自分の音楽を完全には理解していない。ジミ・ヘンドリックスがライブのたびに楽曲を“変えてしまう”ように、音楽は常に変異する生き物である。リスナーの耳と状況によって、音楽は何度でも生まれ変わる。

音楽とは、「何か」ではなく、「どこまでも」である

結局、音楽とは何か? ── その問いに対して、こう答えることができる。

音楽とは、「何か」ではない。音楽とは、私たちが世界をどう感じ、どう想像するかという営みの“かたち”である。

スピリチュアルな体験、個人的な記憶、集団的な儀式、革命、愛、悲しみ、抗議、祈り。それらすべてが音楽の素材となり、音に変換されていく。だから音楽には終わりがない。「完成」もなければ、「正解」もない。

もし、音楽に“定義”を与えなければならないのだとすれば ── それはきっとこうだろう。

音楽とは、音の形をした想像力である。
音楽とは、無意識との対話である。
音楽とは、人間であるという感覚そのものである。

そしてそれが、我々が明日もまた音楽を求める理由なのだ。

※本コラムは筆者の妄想です。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

  • URLをコピーしました!