[妄想コラム]もし弦を弾くことがなかったら ── もうひとつの音楽史妄想記

音楽の歴史を決定づけた行為のひとつ――それは「弦を弾いて音を出す」という営みである。ギター、バイオリン、ピアノ。いずれも弦を響かせることによって世界の音楽を形作ってきた。しかしもし、その行為が人類史上存在しなかったとしたら? 本稿では壮大な妄想を展開し、弦楽器不在の世界における音楽シーンと楽器産業の姿を描き出す。そこに浮かび上がるのは、リズムと管楽器、そして電子音が支配する「もうひとつの音楽史」である。

封印された「弦」

人類が最初に音楽を生み出した時、その方法は大きく分けて三つあった。すなわち「叩く」「吹く」「声を出す」である。そして、そこに加わった革命的な手段が「弦を張り、それを弾いて音を出す」ことであった。リュートや竪琴、後にギターやバイオリンとなっていく弦楽器群は、旋律・和声・伴奏を一挙に担い、音楽を個人の表現手段へと進化させた。

しかし仮にこの「弦を弾く」という概念そのものが欠落していたとしたら、世界の音楽史はまったく異なる風景を見せていただろう。本稿では、そんな大胆な仮定をもとに、人類の音楽シーンを壮大に妄想してみたい。

打楽器王国の誕生

弦楽器の不在は、まず旋律楽器の不足を意味する。結果として打楽器が圧倒的な存在感を持つことになるだろう。アフリカのポリリズムや中南米の打楽器文化が、地域の枠を超えて「世界標準」として受け入れられた可能性が高い。

現実世界ではドラムセットが20世紀にロックと共に隆盛したが、この妄想世界では18世紀の時点で「交響打楽団」が存在していたはずである。旋律楽器を欠くオーケストラは、数百台の太鼓とシロフォンによって構成され、楽譜はリズムの波形として記録されていたかもしれない。

参考曲としては、アフリカの伝統リズムを現代的に再構築したフェラ・クティ「Water No Get Enemy」が、この妄想世界の標準的な音楽に近いだろう。

管楽器の覇権

旋律の空白を埋めるのは、声と管楽器である。フルートやサックス、トランペットが異常なほど多様化し、現実世界のギターやピアノに匹敵する大衆性を獲得したに違いない。

モーツァルトやベートーヴェンはヴァイオリン協奏曲を作曲せず、代わりに「サックス協奏曲」や「フルート交響曲」を残しただろう。ショパンはピアノ曲の代わりに「トランペット・ノクターン」を作り上げ、「フルートの詩人」と呼ばれたに違いない。

参考曲としては、マイルス・デイヴィス『Kind of Blue』収録の「So What」が示す、管楽器による旋律表現の広がりを想像すればよい。この音楽性が、ロックからクラシックに至るまで全ジャンルに浸透していたであろう。

ピアノなきクラシック

最大の衝撃は、ピアノが存在しないことである。ピアノは弦をハンマーで叩いて音を出す構造を持つため、この世界には登場できない。その代わりに「オルガン的鍵盤楽器」や「リードを鳴らすキーボード」が進化していたはずだ。

バッハは「平均律クラヴィーア曲集」を書かず、「平均律オルガン組曲」を残しただろう。ベートーヴェンのソナタは「巨大オルガンのための交響的即興」として演奏され、ショパンは「フルートのための夜想曲集」で恋愛の哀愁を描いたに違いない。

参考曲として、現実のオルガン音楽の最高峰であるバッハ「トッカータとフーガ ニ短調」を聴けば、この妄想世界のクラシックがどのような音響であったかを想像できるだろう。

ロックはサックスから生まれた

弦楽器の不在は、20世紀ポピュラー音楽に決定的な影響を与える。ロックンロールの象徴はギターではなく、サックスであったに違いない。

エルヴィス・プレスリーの横にはギターではなくテナーサックスがあり、彼は「サックスのリフ」で若者を熱狂させただろう。ビートルズは「リヴァプール・サックス・カルテット」として登場し、「Hey Jude」は4本のサックスで大合唱するアンセムとなっていた。

ジミ・ヘンドリックスは「電気サックス」をアンプに通し、過剰なディストーションで火を吹かせるパフォーマンスを披露したに違いない。その姿は、現実の「Purple Haze」ならぬ「Purple Breath」として語り継がれたはずである。

参考曲として、ジュニア・ウォーカー & ジ・オールスターズ「Shotgun」や、ブラス・ロックの頂点シカゴ「25 or 6 to 4」が、この妄想世界のロック・アンセムに直結するだろう。

電子音楽の超加速

弦を弾くという物理的手段が存在しない世界では、人類はより早く電子音へと突入していたと考えられる。19世紀には蒸気駆動のシンセサイザーが実験され、20世紀初頭には真空管による電子ブラスシミュレーターが普及していた可能性がある。

その結果、エレクトロニカやテクノは現実よりも早く主流化し、クラフトワークのような存在は1950年代に登場していたかもしれない。ディスコやハウスも「弦不在」の流れの中で当然のように受け入れられ、現代のポップシーンは「リズム・ブラス・電子音」の三位一体によって支配されていたはずである。

参考曲としては、クラフトワーク「The Robots」やダフト・パンク Punk「Around the World」を聴くと、この妄想世界の主流音楽に驚くほどフィットする。

孤独な歌い手は存在しない

弦楽器の最大の意義は、歌と伴奏を一人で完結できる点にある。ギター一本で歌う弾き語り、ピアノ一台で自らの心情を吐露するスタイル――これはすべて弦の恩恵である。

もしそれが存在しなければ、人類は「歌は必ず集団で奏でるもの」として音楽を発展させていただろう。シンガーソングライターは生まれず、かわりに「声と打楽器を持つ吟遊詩人」が音楽シーンを牽引したはずである。個人の内省的表現は薄まり、音楽はより「共同体的・祝祭的」な意味を帯びただろう。

参考曲として、ボビー・マクファーリン「Don’t Worry, Be Happy」のようなアカペラ表現が、この世界では一般的なポップスタイルとなっていたかもしれない。

結論 「もうひとつの音楽史」の姿

もし弦を弾く行為が存在しなかったなら、音楽はよりリズム的で、より管楽器的で、より電子的なものとして発展していたはずである。ギターのカリスマ性はサックスに置き換わり、ピアノのロマンはオルガンやシンセサイザーに吸収された。孤独な弾き語りは存在せず、音楽は常に共同体の祝祭を支えるものとして存続しただろう。

弦の響きがなかったとしても、人類は必ず音楽を愛し、創造していただろう。だが、その響きは私たちが知る世界とはまったく異なるものだったに違いない。

※本コラムは筆者の妄想です。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

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