
映画において、音楽は空気であり、血流であり、そして感情の最後のひと押しである。だが、もしこの世に「音楽」という概念自体が存在していなかったとしたら、映画の歴史、映画というメディアの表現、そして我々観客の体験は、一体どのように変わっていたのだろうか。
これは「映画のなかの音楽」についての話ではない。そもそも音楽という文化的形式が、この地球上に誕生していなかった世界の映画史を空想してみる。原始の打楽器もなければ、グレゴリオ聖歌も、ベートーヴェンの第九もない。よって、ジョン・ウィリアムズの《スター・ウォーズ》も、エンニオ・モリコーネの《ニュー・シネマ・パラダイス》も生まれない。サウンドトラックという産業も存在しない。
そんな世界で、果たして「映画」は成立していただろうか。
音楽のないサイレント映画──感情の不在
映画の起源は19世紀末のリュミエール兄弟にさかのぼる。だが、その黎明期においても、映画館にはピアノ奏者や楽士が配置され、映像に音楽を添えることが常であった。言葉のないフィルムを感情豊かに支えたのは、実はライブの音楽であった。
仮に音楽がこの世に存在していなければ、サイレント映画は「本当の意味での沈黙の芸術」になっていたに違いない。観客は登場人物の表情や身振り、そして字幕だけを頼りに感情を読み取らねばならず、当然、ドラマ性は著しく損なわれたことだろう。
チャップリンの名作『街の灯』に流れるあの切なくも温かな旋律がなければ、盲目の花売りとの関係はあれほど心に沁みただろうか。否、我々はそこに「感じる」ことの余白を失っていたはずである。
音楽なきトーキー時代──台詞と効果音だけの映画体験
やがてトーキー映画が登場し、音が映画の内部に取り込まれる。ここでも音楽は不可欠であった。ディズニーの『蒸気船ウィリー』(1928年)は、ミッキーがホイッスルを吹き、道具を叩きながらリズムを刻む──映画と音楽が一体化した記念碑的作品である。
映画における音楽とは、感情の増幅装置である。サイコロジカル・スリラーにおける不協和音、ラブシーンで流れるメロウな旋律、戦場映画の勇壮なブラス……。これらが一切存在しない映画を想像するだけで、平坦な映像の世界が広がる。
ジャンルの変化──ホラーもSFもスリラーも存在しない?
音楽が映画にもたらしてきた最も強力な機能のひとつは、「ジャンルの形成」である。ホラーにおけるストリングスの急上昇音や、不協和音の連続は、恐怖の前触れとして観客の心を準備させてきた。もし音楽が存在しなければ、ホラー映画の文法自体が根本から変わっていただろう。
あるいはSF映画。『2001年宇宙の旅』(1968年)の「ツァラトゥストラはかく語りき」がなければ、宇宙的スケールの荘厳さをどう表現したのか。VFXだけでは伝えきれない「超越感」は音楽によって補完されていた。
だが音楽の存在しない世界においては、トーキーの意味は「台詞」と「効果音」のみに限定される。クライマックスの高揚感も、悲劇の静けさも、すべては俳優の演技とセリフ回しに委ねられる。もちろんそれは技術として極められていったかもしれない。だが、「心を揺さぶる」という作用においては、どうしても限界がある。
スリラー、アクション、ラブロマンス。あらゆるジャンル映画は、音楽と共に成長してきた。もし音楽がなければ、ジャンルの細分化すら起きなかったかもしれない。すべての映画は「無音の演劇的映像」として、一元化されたまま停滞していた可能性がある。
映画のもうひとつの未来──音響演出の異化と進化
とはいえ、音楽のない映画世界においても、人間は「音」によって何かを伝えようとしたに違いない。音楽の代替として発展する可能性があるのは「音響演出」である。
たとえば、風の音、足音、呼吸音、機械音──これらのSE(サウンド・エフェクト)を極限まで洗練させ、音だけで情緒や緊張感を構築するような映画が主流になっていたかもしれない。つまり、映画は「聴覚的リアリズム」の方向へ進化した可能性がある。
また、人間の声──話し声、ため息、うめき声──が、より音楽的な役割を担っていたかもしれない。音楽のない世界では、俳優たちは「声そのもの」を操作する術を身につけ、それを通してリズムや抑揚、テンポといった感情の波を構築しただろう。
サウンドデザインの極北へ──“映画詩”の誕生
もうひとつ想像できるのは、映像と音の関係がもっと詩的に、抽象的に扱われていた可能性である。たとえば、スタン・ブラッケージのようなアヴァンギャルド映像作家が、音響そのものをコラージュし、「非音楽的な音楽」として再構築する手法が一般化していたかもしれない。
音楽がない分、人間は他の知覚要素──光、ノイズ、沈黙──を総動員し、そこに「リズム」や「抑揚」を見出そうとしたであろう。そうした映画は、より抽象的で、観念的で、詩的なものになっていたに違いない。

映画と音楽の関係を見つめ直すために
この仮想の世界を通して、我々は逆説的に、いかに映画が音楽に依存しているかを再認識する。映画は「動く写真」ではあるが、その背後には常に「鳴り響く感情」があった。そしてそのほとんどは、音楽が担ってきた。
もし音楽がなかったら、映画はもっと無口で、もっと冷たく、もっと曖昧な芸術だったかもしれない。感情は抑えられ、ジャンルは育たず、映像は意味を持ち得なかっただろう。
つまり、映画にとって音楽とは、「感情の言語」であり、「記憶の触媒」であり、「時間を操作する魔法」だったのである。
映画の歴史を語るうえで、音楽は決して副次的な存在ではない。むしろ、映画という夢がここまで豊かになったのは、音楽という“もうひとつの言語”が寄り添ってくれたからに他ならない。
だからこそ、我々は今日もまた、あの音楽を聴けばあの映画を思い出すし、あの映画を観ればあの旋律が耳に蘇るのだ。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。