[妄想コラム]ドラッグが存在しなかったら、音楽のあり方は変わっていたのか?──ある種の文化的前提を失った音楽史の妄想

はじめに:音楽とドラッグの距離感

音楽の歴史をたどるとき、しばしば避けては通れないのがドラッグという存在である。それは決して推奨でも否定でもなく、あまりに多くの創作の場面で、その存在が暗黙の前提として横たわっていたことの指摘にすぎない。サイケデリック・ロックの反復性も、レゲエのゆったりとしたビートも、テクノの四つ打ちの快楽性も、すべて「もう一つの知覚」が音楽にもたらしたものだった。

では、もしドラッグが文化として存在していなかったら? 音楽は違う道を歩んでいただろうか。この思考実験は、単なる逆説ではない。音楽が社会や精神、政治の変化と結びついてきたことを考えれば、ドラッグという媒介がなかったとしたら、そこにどのような“変化の欠損”が生まれたのかを空想することは、むしろ歴史の輪郭をなぞる手つきにも似ている。以下では、ジャンルごとにその可能性を探ってみたい。

サイケデリック・ロックが内省の闇に沈んだ世界

1960年代後半、LSDとともに咲いたサイケデリック・ロックは、音響的にも精神的にも大きな革命をもたらした。色彩感覚の拡張、時間感覚の伸縮、現実からの乖離。それらは直接的に音楽の形式や歌詞の内容にまで及んだ。ビートルズの『Revolver』や『Sgt. Pepper’s』、ピンク・フロイドの初期作品、グレイトフル・デッドのジャムセッションなど、その多くはドラッグによる知覚の変容を追体験するような構造を持つ。

では、もしLSDがこの時代に普及しなかったとしたら? サイケデリック・ロックは、あそこまで拡張的な音楽にはならなかった可能性が高い。代わりに、1960年代後半はより内省的で文学的なロックへと進化していたかもしれない。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのような都市の退廃と個の孤独に向き合うスタイルが主流化し、「拡張」ではなく「観察」に根ざした音楽文化が形成されていたかもしれない。

怒れるレゲエ──反逆のリアリズムがリズムを破壊する

レゲエは、ジャマイカのスラムから生まれた音楽であると同時に、ラスタファリズムと深く結びついた精神運動でもあった。そしてその中心にあったのがマリファナである。ガンジャは、彼らにとって「神との対話のための手段」であり、ただの娯楽ではない。その霊的な解放感が、レゲエのゆったりとしたビートを生んだのだ。

では、もしマリファナがラスタ文化に組み込まれていなかったら? レゲエはより政治的で過激なプロテスト・ソングに近づき、あの特有の心地よいグルーヴ感は生まれなかった可能性がある。現実のレゲエが「闘いと祈りのあいだ」で揺れていたとするなら、ドラッグ不在のレゲエは「怒りと現実」のみに集中していただろう。

エクスタシーなきテクノ──身体なき機械音楽の進化

1980年代末から90年代にかけて世界を席巻したアシッドハウスとレイヴカルチャー。その中心にあったのがMDMA──通称エクスタシーである。これは単なる快楽剤ではなく、音楽を「身体で共有する」感覚を加速させる装置だった。踊る、繋がる、溶ける……。これらの感覚が、四つ打ちのビートと融合し、テクノ/ハウスというジャンルを「共同体の儀式」へと変えた。

では、MDMAが存在しなかったら? テクノはよりアカデミックな実験音楽に近づいていたかもしれない。クラブではなくギャラリーや研究所、観客ではなく観察者。野生の多幸感ではなく、論理的に構築されたミニマリズム。その分岐点は、クラフトワークとデリック・メイの違いにも見て取れる。

ヒップホップは公的アートになったか?

ヒップホップの初期において、ドラッグは「現実そのもの」であった。ゲトーの中でドラッグを売り、生き延びる術としてラップがあった。しかし80年代末から90年代初頭にかけて、ドラッグは音楽そのものを商品化し、暴力性や快楽主義と不可分になった。

では、ドラッグが存在しなければ? ヒップホップは、より詩的な都市観察として進化していた可能性がある。暴力の代わりに批評、マッチョな主張の代わりに社会分析。より知的なパブリック・スピーチとしてのヒップホップ。ソウル・ウィリアムズやザ・ルーツのような方向が主流になっていたかもしれない。

アンビエントが到達した“自然との共鳴”

アンビエント・ミュージックもまた、ドラッグと深い関係を持つ。クラブカルチャーにおいては、チルアウトルームの音楽として、あるいはトリップの後に心を整える音響空間として機能してきた。

だが、もしドラッグがなかったとしたら? アンビエントはもっと明確に「環境音楽」へと向かっていたかもしれない。ブライアン・イーノの『Ambient 1: Music for Airports』の系譜よりも、フィールド・レコーディングや生態音響の実験が主流となり、精神的な内省よりも、自然と都市の共鳴に関心が向けられた可能性がある。

文化としてのドラッグ不在──もっと孤独で、もっと政治的だった音楽たち

ここまで見てきた通り、ドラッグの不在は、音楽における「解放感」を奪うだけでなく、「共同体幻想」そのものを削ぎ落としていた可能性がある。つまり、音楽はもっと個的で、孤独で、そして政治的な方向へ進んでいたのではないかということだ。

祭りはなかった。恍惚はなかった。あるのは観察と思索、そして現実に対する直視。ドラッグがなかった世界では、音楽が「逃避」ではなく「対話」の道具になっていたかもしれない。そしてそれは、ときに現実と向き合うゆえに、娯楽性を持たない音楽となっていただろう。

結論:私たちが聴いてきた音楽は“ドラッグの夢”だったのか?

音楽は常に「もう一つの現実」を提示してきた。それが宗教だった時代もあるし、ドラッグだった時代もある。だが、いずれにせよ、それは「現実の外側」を見つめる欲望であり、音楽とはその手段だった。

ドラッグのない世界にも音楽は存在しただろう。ただし、それは今私たちが知っている音楽とはまったく異なる構造を持ち、まったく異なる感情を伴っていたはずである。

そしてこの妄想の先にある問いは、こうだ──次の時代の音楽は、どんな“夢”をベースに生まれてくるのだろうか?

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

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