
前回、「アシッドジャズ前夜」と題して、1980年代後半のロンドンにおけるレア・グルーヴの再評価、DJ文化の知的進化、そしてクラブという場の機能変化を確認した。音楽的にも文化的にも準備は整っていた。では、“アシッドジャズ”とは一体どこで、どのようにして名乗りを得たのか? 本稿ではその出発点を明確にし、アシッドジャズが単なる音楽スタイルにとどまらず、時代を象徴するムーヴメントとして躍進した過程を追う。
「アシッドジャズ」という言葉の起源
1988年、アシッドハウスがイギリスの若者文化を席巻していたさなか、ロンドンのあるDJが、笑い混じりに放った一言がジャンルの名を決定づける。それが、クリス・バングスによる「これはアシッドハウスじゃない、アシッドジャズだ」という言葉である。
これは単なるジョークにとどまらなかった。ちょうどその頃、ジャイルス・ピーターソンとクリス・バングスが立ち上げた新しいレーベルが、この「Acid Jazz」という言葉を正式にレーベル名として採用することで、“アシッドジャズ”はジャンルとしての輪郭を持ちはじめた。1988年、Acid Jazz Recordsはロンドンに誕生した。
このレーベルの設立は、音楽の混血性を肯定する試みであった。ジャズ、ファンク、ヒップホップ、ラテン、レゲエ ── あらゆる黒人音楽の要素を取り込みながら、それを当代のクラブ的文脈において提示すること。それが、アシッドジャズの核であり、Acid Jazz Recordsの使命であった。
ブランドとしての“Acid Jazz”
Acid Jazz Recordsは、単なるレコード会社ではなく、ライフスタイルの提案者でもあった。最初期のリリースで注目を集めたのが、ガリアーノというユニットである。彼らのデビューシングル「Frederick Lies Still」は、ジャズのスピリチュアルなサウンドと、ヒップホップ的リズム、さらに語り口調のラップが融合した一曲であった。これは当時としては極めて実験的な音楽でありながら、クラブフロアでの熱狂を生み出した。
この頃のアシッドジャズは、ジャズマンによる演奏というよりも、むしろDJやプロデューサーの視点から再構成された「ジャズの在り方」であった。ザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、インコグニート、ジャミロクワイなど、後に大成するグループの多くも、初期はこのレーベルからの発掘によって世に出ている。
特にザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズは、初期にはインストゥルメンタルのファンクバンドとして活動していたが、アメリカ人女性シンガー、エンディア・ダヴェンポートを迎えてから一気に注目を浴びた。「Dream Come True」や「Stay This Way」など、クラシックなソウルの感覚を現代的なグルーヴで蘇らせたそのスタイルは、アシッドジャズの象徴ともいえるサウンドである。
ジャズとヒップホップの架け橋
アシッドジャズの音楽的特徴として特筆すべきは、ジャズとヒップホップを架橋する視点を持っていた点である。80年代後半、ヒップホップはサンプリング文化を通じてジャズと接近していたが、アシッドジャズはこれをさらに一歩進めて、「演奏によるヒップホップ」あるいは「ジャズのヒップホップ的再構成」を目指した。
この象徴的存在が、グループ「United Future Organization(通称UFO)」である。日仏混成ユニットであったUFOは、トーキング・ジャズやスピリチュアル・ジャズ、あるいはマイルス・デイヴィス以降のエレクトリック・ジャズを、サンプリングやブレイクビーツの文脈で再構成してみせた。「Loud Minority」などに聴かれるそのアプローチは、アシッドジャズが単なるスタイルではなく、時代を読み替える「編集的表現」であることを示している。
クラブからテレビへ ── メディア露出とブーム化
1990年代初頭、アシッドジャズはロンドンのクラブシーンに留まらず、徐々にメディアを通じて一般層にも広がっていく。音楽誌『Straight No Chaser』は、アシッドジャズやジャズ・ダンスの潮流をいち早く誌面に取り上げ、モードや政治性と結びつけながら“知的なクラブカルチャー”として位置づけた。
また、BBCの音楽番組などでもアシッドジャズ・アーティストたちが紹介されるようになり、ジャズという言葉に付きまとっていた「古臭い」「難しい」といったイメージを刷新する役割を果たした。ジャミロクワイはその代表格であり、「When You Gonna Learn?」や「Too Young to Die」は、エコロジーや反戦といったメッセージ性を孕みつつも、アシッドジャズのノリの良さを前面に出した作品であった。
また、TVコマーシャルや映画のサウンドトラックにアシッドジャズが頻繁に起用されるようになったことで、“おしゃれなBGM”としての側面も強調された。これが、後の「アーバン・サウンド」や「ラウンジ・ミュージック」といった潮流の土台ともなっていく。
ロンドンから世界へ ── アシッドジャズの国際化
アシッドジャズは瞬く間に世界中の都市に波及していった。パリ、東京、ニューヨーク、サンパウロ、メルボルン ── それぞれの都市において、ローカルなミュージシャンやDJたちが自国の音楽文化とアシッドジャズ的感性を融合させていったのである。
例えば、東京では1990年代初頭からU.F.O.を中心とした〈Brownswood Tokyo〉のようなイベントが盛り上がり、須永辰緒、沖野修也(Kyoto Jazz Massive)といったDJたちが独自のアシッドジャズ的選曲を磨いていった。ブラジルではマルコス・ヴァーリの再評価が進み、ボサノヴァやサンバとアシッドジャズの融合が試みられた。
また、ファラオ・サンダースの同名曲をサンプリングしたガリアーノの楽曲「Prince of Peace」は世界各地で愛され、宗教や文化を超えたスピリチュアルな音楽表現としても影響を与えていったと言える。
“ジャンル”から“感性”へ
こうして、アシッドジャズは単なる音楽ジャンルとしてではなく、「選曲の美学」あるいは「編集感覚」としての性格を強めていった。生演奏とサンプリング、知性と身体性、ジャズとヒップホップの間に立つこの感性は、後にロンドンから生まれる「ブロークンビーツ」「ニュージャズ」「ロウビット・ソウル」といったジャンルにも深い影響を及ぼす。
つまり、アシッドジャズはある時点で“音楽のジャンル”を超え、“方法論”へと進化したのである。
次回は、アシッドジャズの“黄金時代”に焦点を当てる。ザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズやインコグニートの成功、そしてアメリカ市場への挑戦を通じて、アシッドジャズがどのようにメインストリームに食い込んでいったのかを追っていく。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。