
音楽のジャンルとは、いわば世界を理解するためのラベルである。「これはロックだ」「この曲はテクノだ」「これはフォークの流れを汲んでいる」といった言葉は、音楽を語る際の道標として機能してきた。そして、それは同時に発信のための“タグ”でもあった。レコード屋の棚はジャンルによって分かれ、配信プラットフォームではアルゴリズムがそのタグをもとに推薦を行っている。
しかし、もしこの「ジャンル」という概念が世界から消え去ったら、音楽の発信はどう変わるのだろうか。言い換えれば、音楽をジャンルで括ることなく、いかにして他者に届けるか ── という問いである。
音楽の構造ではなく、その質感や感情の動きを伝える
まず、言葉の役割が大きく変わる。ジャンルが使えないということは、「これはLo-fiヒップホップです」「90年代UKガラージ風です」といった説明が通用しなくなることを意味する。その代わりに必要になるのは、詩的な表現や感覚的な比喩である。たとえば「まどろみと現実の間に浮かぶようなリズム」「朝焼けの色彩を閉じ込めたようなメロディ」「深海で聞こえる鼓動のような低音」など、音楽の構造ではなく、その質感や感情の動きを伝える語り方が求められる。
これは、メディアや批評の言葉にも影響を及ぼす。従来、音楽批評はジャンルや歴史的背景を軸に展開されることが多かった。しかし、ジャンルが存在しなければ、語るべきは「文脈」ではなく「体験」となる。「この曲を初めて聴いたとき、目の前の景色が変わって見えた」「何度も繰り返し聴いているうちに、昔の記憶がゆっくりとほどけていった」といった、リスナーの身体や記憶を通じた語りが、より重要な情報となる。

人の心の状態や生活の場面に寄り添うプレイリスト
また、プレイリストの構成も大きく変化するだろう。現在、SpotifyやApple Musicではジャンル別のプレイリストが主流であるが、ジャンルという指標がなければ、シチュエーションや感情、身体感覚に基づく分類が軸となる。たとえば「眠れぬ夜のための10曲」「まっさらな朝に聴きたい音楽」「過去を手放すためのプレイリスト」など、人の心の状態や生活の場面に寄り添う編集が主流になる。
この変化は、メディアやキュレーターの役割にも影響を与える。これまで音楽を紹介するという行為は、「このジャンルが好きなら、きっとこのアーティストも好きだろう」といった相関関係の提示だった。しかし、ジャンルを基準にできなくなれば、紹介とは“橋を架ける”というより、“扉を開ける体験をデザインする”という方向に進化する。
たとえば、あるメディアが次のように音楽を紹介するとしよう。
「この曲は、ぜひ夜に、イヤホンで、誰にも話しかけられない場所で聴いてください。最初の10秒は静かですが、そこで心が整います」
これはもはや“紹介”ではなく、“体験の演出”である。ジャンルのない世界では、リスナーがその音をどう受け取るかという感覚のスイッチを入れる言葉こそが、音楽の届け方の中心になる。
アーティスト自身もまた、ジャンルの代わりに自らの“世界観”や“物語”を打ち出すようになるだろう。「これは〇〇系の音楽です」ではなく、「私はこういう世界を見ていて、それを音にしています」と語る。その言葉や佇まいが、音と共に受け取られる時代になる。
情報から体験へ、分類から共鳴へ
ジャンルがなくなることは、単なる分類の終焉ではない。それは、音楽がより人間的な感覚と言葉に頼って流通するようになることを意味する。便利な地図を失う代わりに、我々はもっと注意深く耳を澄まし、自分の感性を信じる必要が出てくる。情報から体験へ、分類から共鳴へ。音楽の発信は、そんなふうに変わっていくのではないか。
ジャンルという言葉が消えたとき、音楽はもっと“生きた言葉”で語られるようになる。そこにはきっと、ジャンルでは語りきれなかった音の深さと、より繊細な共有の風景が広がっているはずである。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。