[妄想コラム]4拍子が発明されなかった世界 ── 人類は「ノる」という感覚を知らないまま文明を築いた

「音楽に革命を起こしたのは誰か?」

そんな問いを投げかければ、多くの人はビートルズやクラフトワーク、ジェームス・ブラウン、あるいはデリック・メイの名前を挙げるだろう。でも、もしかすると本当の革命家は、名前すら残っていない。何万年も昔、誰かが偶然、「4つ数えてみよう」。そう思いついた、その瞬間だったのかもしれない。

では逆に考えてみよう。もし人類が一度も4拍子を発明しなかったら? もし世界中の音楽が5拍子、7拍子、11拍子、13拍子だけで進化していたら? そんな世界では、私たちが「ノれる」と信じている音楽は、一体どんな姿になっていただろう。

今日は少しだけ、別の地球へ旅をしよう。

人類は「歩くリズム」を音楽にしなかった。

私たちは歩く。左、右、左、右。この単純な繰り返しは、あまりにも当たり前すぎて意識されない。でも考えてみてほしい。歩行そのものが、世界最大のリズムマシンだ。心臓は一定に鼓動し、足は交互に前へ出る。だから人間は自然と偶数を愛する。4拍子は、身体そのものなのである。

しかし、この世界では違った。古代のある部族は、狩りの最中にこう数え始めた。「1、2、3、4、5」。そこで区切る。次は、「1、2、3、4、5」。また区切る。その数え方が、何世代も受け継がれた。

偶然だったのか。宗教だったのか。誰にもわからない。ただ、その小さな癖が文明を変えた。子守歌は5拍子。収穫祭は11拍子。結婚式は7拍子。戦争へ向かう兵士たちは13拍子で行進した。もちろん彼らにとって、それは変拍子ではない。それが普通だった。現実世界で私たちが「変だ」と感じるものは、その世界では「安定」だったのである。

だから、私たちの世界で少し緊張感を帯びて響く、Dave Brubeck「Take Five」や、拍子の揺らぎがクセになるRadiohead「15 Step」は、向こうでは卒業式で子どもたちが歌うような、ごく普通のスタンダードナンバーだった。

逆に「タッタッタッタ」という均等な4拍子を聴かされたら、人々は顔をしかめる。「ずっと同じ場所に着地してる……」、「怖い」。そう感じるのである。

現実世界で私たちが少し緊張感を覚えるPink Floyd「Money」でさえ、この世界ではコンビニで流れるような日常の音楽だ。誰も「変拍子」だとは思わない。むしろ「今日はずいぶんストレートな5拍子だね」と会話するくらい、ごく普通のポップソングなのである。

ハウスもテクノも生まれた。ただし、踊り方がまるで違う。

クラブカルチャーは誕生した。DJも存在した。シンセサイザーもドラムマシンも開発された。ただし、その思想は根本から違っていた。私たちの世界でクラブミュージックは、「次の一拍が来ること」を信じて踊る文化だ。四つ打ちのキックは、未来を約束してくれる。だから身体は安心して委ねられる。

現実世界では前衛として語られる Aphex Twin「Bucephalus Bouncing Ball」や Autechre「Gantz Graf」、Squarepusher「My Red Hot Car」は、この世界では国民的人気アーティストだ。小学生が口ずさみ、スーパーのBGMで流れ、結婚式の定番曲として愛されている。

一方、彼らの耳には、私たちの世界のディープハウスは奇妙に映る。「ずっと同じ位置にキックがあるなんて、作曲をサボっているの?」 ── そう本気で思われてしまう。

ドラムマシンも違う。Rolandが1983年に発売したのはTR-909ではない。TR-17だった。17ステップ。液晶には「16」は存在しない。その後もTR-19、TR-23、TR-31が発売される。「偶数でループするなんて、不自然だ」。それが世界中の開発者の共通認識だった。

Ableton Liveにも「4 Bars」という表示はない。「91 Beats」「143 Beats」 ── それがソングの基本単位である。DJたちは言う。「次の113拍でドロップします」。「今日のセットは17×19構成です」。初心者は誰一人ついていけない。しかし、それがポップカルチャーなのだ。

ここで一曲。Venetian Snares「Szamar Madar」。私たちの耳には猛烈に複雑に聞こえる。しかしこの世界では、「ずいぶん踊りやすいね」。そんな感想になる。難解なのは曲ではない。私たちの耳なのだ。

“ノる”のではない。”追いかける”のだ。

この世界のダンスは、スポーツに近い。踊るというより、リズムを追跡する。一歩遅れれば置いていかれる。一歩早ければ笑われる。だからクラブには、現実世界とは違う種類の緊張感が漂っている。

DJは身体を揺らす人ではない。観客の予測能力を試す人だ。もし、この世界のベルリンにあるクラブへ行けば、入口にはこんな張り紙があるだろう。

「本日のレジデントDJは19拍子中心のセットです。初心者の方はご注意ください」

そしてフロアでは誰も酒に酔っていない。全員が拍を数えている。「……14、15、16、17……あ、ここで11に切り替わる!」。歓声が上がる。サッカーでゴールが決まったような盛り上がりだ。

クラブでは Floating Points「Bias」や Clark「Winter Linn」がピークタイムを飾る。DJは観客の身体を揺らすのではなく、脳を揺らす。ドロップが来るのではない。数学的な快感が訪れるのである。

私たちの世界では、反復が快感を生む。あちらでは、予測が当たることが快感になる。音楽は、脳のスポーツだった。

存在しない歴史の中で、存在した”第一次変拍子戦争”

もちろん、音楽史に論争はつきものだ。この世界にも「第一次変拍子戦争」と呼ばれる事件がある。20世紀初頭、「5拍子こそ人間の自然な鼓動だ」と主張する五拍派と、「いや、7拍子こそ宇宙の呼吸だ」と信じる七拍派が激しく対立した。新聞は連日この話題を報じ、評論家は「5は肉体、7は精神」と難解な文章を書き散らす。若者たちは「5拍子は古い」と言い、「いや、7は商業主義だ」と反論する。

今読むと滑稽だ。だが、それは私たちが「ロックは死んだ」「EDMは終わった」と語る姿と何も変わらない。人間は、いつだって拍子に時代を映してきた。

そして、一人の狂人が4拍子を発明する。

歴史は、いつも異端から始まる。西暦2038年。無名の電子音楽家が、一枚のEPを発表する。タイトルは、「4」。収録曲は、すべて同じだった。“ドン、ドン、ドン、ドン”。── ただ、それだけ。一切ズレない。裏切らない。永遠に同じ場所へキックが落ちる。評論家は酷評した。「子どもでも作れる」、「数学的想像力の欠如」、「リズムを放棄した退屈な音楽」 ── 。

ところが、クラブでは異変が起きる。誰も拍を数えなくなった。考えなくても踊れる。身体が勝手に動く。隣の人と同じタイミングで跳ねられる。誰もが同じ未来を共有できる。フロアには、それまで存在しなかった種類の一体感が生まれた。音楽ではなく、共同体が鳴り始めたのである。

その日を境に、人々は初めて知る。リズムは、驚かせるためだけにあるのではない。安心させるためにもあるのだ、と。

4拍子は、世界でいちばん過激な音楽だった。

私たちの世界では、4拍子は「普通」だ。しかし、それは偶然にすぎない。もし歴史が少し違っていたら。もし誰かが最初に数えた数字が「5」だったら。もし祭りが7拍子で始まり、宗教が11拍子を神聖視していたら。私たちは今ごろ、「4拍子なんて単純すぎる」と笑っていたかもしれない。

音楽は文化であり、文化は習慣であり、習慣は歴史の偶然だ。だから、「ノれる音楽」が最初から決まっていたわけではない。私たちは4拍子を選んだのではない。“4拍子という偶然に育てられた”。そう考えると、クラブで鳴る何気ないキックの音も、少し違って聴こえてくる。“ドン、ドン、ドン、ドン”── それは世界で最もありふれたリズムではない。

何万年もの偶然が積み重なった末に、人類がたどり着いた、奇跡の約束なのかもしれない。

※本コラムは著者の妄想です

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

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