[妄想コラム]もし、シンセサイザーが発明されなかったら──未来を夢見ない音楽が、世界をどこまで深く震わせたか

未来音が存在しない世界で、音楽はどこを向くのか

もし、シンセサイザーがこの世界に存在しなかったら。
電圧が音に変換されることもなく、
ツマミを回せば宇宙が鳴る、そんな魔法も知らないまま、
人類は音楽を作り続けていたとしたら。

そこに「未来の音」はない。
あるのは、過去から受け継がれ、現在の身体を通して鳴る音だけだ。

木を叩く音。
皮が震える音。
息が擦れる声。
弦が張りつめ、やがてほどける瞬間の、わずかな揺れ。

音楽は進歩ではなく、堆積として存在する。
新しさは発明ではなく、解釈によって生まれる。
「まだ聴いたことのない音」ではなく、
「まだ聴いたことのない鳴らし方」だけが、更新を許される世界。

人間の身体が、そのまま楽器だった時代が続いていたら

シンセサイザーがない世界では、
音楽の中心にあるのは、常に人間の身体だ。

声帯、肺、指、皮膚、骨。
音楽は身体能力の延長線にあり、
トレーニングとは、テクニックの習得である前に、
自分の肉体と向き合う儀式になる。

例えば、バッハの《無伴奏チェロ組曲》。
あれはすでに「身体だけで宇宙を描く音楽」だ。
シンセが存在しない世界では、
こうした音楽が「古典」ではなく、
常に最先端の精神性として更新され続けていたはずだ。

声においても同じだ。
ブルガリアン・ヴォイスのような倍音を多用する民謡、
あるいはヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのカッワーリー。
人間の喉がここまで異界に踏み込めることを、
私たちはすでに知っている。

テクノが生まれなかった代わりに、何が生まれたのか

シンセサイザーがなければ、テクノは存在しない。
デトロイトも、ベルリンも、
冷たい反復と無機質な四つ打ちは、歴史に刻まれなかった。

しかし、リズムそのものが消えるわけではない。

むしろ、電子的に均されたビートが存在しないからこそ、
リズムはもっと野蛮で、歪で、呪術的になる。

アフリカのポリリズム。
複数の時間が同時に流れる、あの感覚。
スティーヴ・ライヒの《Drumming》が示したように、
人力の反復は、機械よりもずっとトランス的だ。

人々は踊るためにクラブへ行くのではない。
変性意識に入るために、輪になる。

音楽は娯楽ではなく、
共同体が共同体であるための、
最も原始的な装置として機能する。


「未来っぽさ」がない音楽は、退屈だったのか?

ここで多くの人が思うだろう。
シンセのない世界なんて、地味で、発展がなくて、
すぐに飽きてしまうのではないか、と。

だが実際は逆かもしれない。

未来音がないからこそ、
音楽は時間の深さで勝負する。

一音が鳴るまでの沈黙。
鳴ってから消えるまでの余韻。
そのすべてが、音楽の一部として聴かれる。

ブライアン・イーノがアンビエントでやろうとしたこと ──
「音楽を環境にする」という発想は、
実は電子音がなくても成立する。

例えば、テリー・ライリーの《In C》。
ミニマルだが、人間的で、呼吸している音楽。
シンセがない世界では、
この方向性こそが主流になっていたはずだ。


音楽は「進化」ではなく「祈り」になっていた

シンセサイザーが発明されなかった世界で、
音楽はテクノロジーと結びつかない。

つまり、
「より速く」「より大きく」「より派手に」
という進化の物語から、自由になる。

代わりに音楽は、
繰り返される祈りとして存在する。

同じ旋律を、何百年も歌い続ける。
少しずつ変わりながら、
でも本質は変えずに。

それは宗教音楽であり、
フォークソングであり、
子守唄であり、鎮魂歌でもある。

レコーディング技術が発達しても、
「完成形」は存在しない。
あるのは、その夜、その場所、その人たちによる、
一回限りの正解だけ。

それでも、人は未来を夢見ただろうか

シンセサイザーは、未来を鳴らす装置だった。
それがなければ、
人類は未来を夢見なかったのか?

きっと、そんなことはない。

ただ、未来は
銀色でも、無機質でも、宇宙船の形でもなく、
もっと土に近いかたちをしていたはずだ。

新しい音を作るのではなく、
古い音をどう生き延びさせるか。
その問いの中で、
音楽は今よりも、
ずっと人の生と死に寄り添っていた。

シンセがない世界で、それでも鳴り続けるもの

もし、シンセサイザーが発明されなかったら。

未来は想像されず、
音楽は過去と現在だけで鳴っていた。

だがその世界は、
決して後ろ向きではない。

一音一音に、
誰かの祈りが宿り、
誰かの記憶が重なり、
誰かの身体を震わせる。

便利ではない。
派手でもない。
でも、確実に、生きている音楽。

私たちがいま「原始的」と呼んでしまうその場所に、
もしかすると、
音楽のいちばん深い幸福が、
まだ眠っているのかもしれない。

※本コラムは著者の妄想です

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

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