
民族音楽は、その土地の暮らしや風土、信仰、歴史を音に刻み込んだ、人類の“声”である。電子音が世界を席巻する今もなお、世界各地には太鼓や笛、声と手拍子だけで継承されてきた音楽文化が息づいている。この連載では、アフリカのサバンナからアジアの山岳地帯、南米の密林から極北のツンドラ地帯まで、世界中の知られざる民族音楽を訪ね歩く。単なる紹介にとどまらず、その背景にある文化や物語にも光を当て、音楽を通じて世界をより深く知る旅へと誘う。音の地球儀を、いま一緒に回しはじめよう。
バカンス客で賑わう黒海沿岸を離れ、ロドピ山脈の麓に降り立つと、霧に溶け込むような女声コーラスが聞こえてくる。自然倍音を含んだハイトーンが、別の声部と容赦なくぶつかり合い、きわどい不協和のまま宙づりになる──ブルガリア民謡のポリフォニーだ。西洋クラシックの調性とも、ゴスペル的ハーモニーとも異なるこの響きは、農耕儀礼や婚礼、収穫祭のたびに繰り返され、女性たちの息づかいと共に何世紀も受け継がれてきた。本稿では『Le Mystère des Voix Bulgares(神秘の声)』に象徴されるブルガリア合唱の歴史、音楽的特徴、そして現代への影響を辿る。ガムランの“揺らぎ”、グリオの“語り”に続く第3の旋律は、女声が織り成す“緊張”である。
山峡にこだまする声──ポリフォニーとの出会い
ブルガリア南西部、ピリン山脈を貫く渓谷で耳にしたのは、二声が衝突しながらも絶妙のバランスで浮遊する合唱だった。旋律は細かく装飾され、各声部が半音どころか四分音単位で揺れ、聴く側は「調和」と「不安」の狭間に置かれる。これこそブルガリアのポリフォニー──女性たちが日常の労働歌や祝祭で育んだ多声音楽である。土着の旋律が交差しながら、不協和を含んだまま滑り込むように終わる。その感覚は、日本の合唱曲や教会旋律ではほとんど味わえない。
歌っている女性たちにとって、これは”音楽”というより、暮らしそのものだった。婚礼の朝に歌われる祝詞のようなコーラス。麦を刈る手を休めずに響く輪唱。声と声が対話し、土地のリズムが編まれていく。
ブルガリア民謡の地層──歴史と地域差
ブルガリアは決して広大な国土を持つわけではないが、その民謡文化は地域ごとに驚くほどの多様性を示す。たとえば南のロドピ地方では、物語性の強い長旋律と独特のリズム感が特徴。一方、ドナウ流域はより軽快な舞曲的性格が強く、黒海沿岸はトルコやギリシャの影響を受けた旋律が交差する。そしてソフィア周辺のショプ地方では、二度や七度でぶつかり合う強烈なポリフォニーが聞かれる。
これらの歌は口承で受け継がれ、特に女性たちの間で母から娘へと伝わっていった。19世紀のブルガリア民族復興運動期には、民謡は「国民的遺産」として再評価され、書き留められるようになる。しかし、その本質はあくまで即興性と身体性にあった。旋律が変化していくことそのものが文化だったのだ。
いびつなハーモニーの秘密──音階・リズム・発声法
ブルガリアの合唱が西洋の耳に「異質」と感じられるのは、まず音階構造の違いにある。12平均律では捉えきれない微分音や、旋律ごとに異なる民族的スケール。さらにリズムも独特で、7/8、9/8、11/16といった奇数拍子(ブルガリアン・メーター)が多用される。
ショプ地方のポリフォニーでは、一方の声部がドローンのような持続音(イゾ)を保ちながら、もう一方がその上でメロディを自由に展開する。発声法も独特で、胸声と鼻腔共鳴を強く用いた鋭い響きが特徴である。ディアフォニアと呼ばれるこの技法は、金属的な質感を持ち、倍音が強く際立つ。聴覚的には、ほとんど電子音のような響きさえ感じることがある。
社会主義と“民族芸術”──国家合唱団の誕生
1944年にブルガリアが社会主義国家となると、民謡は国家の「文化戦略」の一部として組織化されていく。その中心にいたのが作曲家フィリップ・クーテフである。彼が率いた国立民謡合唱団は、農村の歌をステージ芸術として昇華するべく、高度に構成されたアレンジを施した。
その結果生まれたのが、西洋クラシックの合唱団にも匹敵する精度を誇りながら、土着の不協和音感覚を残したままの女性合唱である。三和音ではなく、あえて二度や七度の緊張感を生かした編曲。舞台上での合唱と衣装は、民衆の生活の中にあった声を「芸術」として制度化し、記録し、輸出することを可能にした。
『神秘の声』が開いた扉──世界を揺らした女声コーラス
この国家合唱団の録音を西洋世界に紹介したのが、スイスのプロデューサー、マルセル・セラーだった。彼がコンパイルしたアルバム『Le Mystère des Voix Bulgares(神秘の声)』は1986年にリリースされ、世界中に衝撃を与える。西洋音楽教育では教わらないハーモニーが、まるで中世と未来が同時にやってきたかのような感覚を引き起こしたのだ。
ケイト・ブッシュはこの声をサンプリングし、ピーター・ガブリエルはReal Worldレーベルを通じて広め、坂本龍一も『Neo Geo』でショプ地方の合唱を引用した。トリオ・ブルガルカ(Trio Bulgarka)やエヴァ・カルテット(Eva Quartet)といった若手ユニットも登場し、この伝統はポピュラー音楽とも交差していく。
YouTubeでは『Le Mystère des Voix Bulgares Vol.1〜4』や『Bulgarian State Television Female Choir』の映像が多数公開されており、その現代的な魅力は今なお衰えていない。
6 現代への接続──坂本龍一からアイスランド・ドローンまで
今日、ブルガリア民謡はエレクトロニカやドローンミュージックの文脈でも参照されている。例えばDead Can Danceのリサ・ジェラルドはブルガリア的発声法を基礎に持ち、Heilungの儀式的ボーカルもその系譜に連なる。アイスランドのアーティストKira Kiraは『Pirin Voices』のフィールド録音を素材にした楽曲を発表し、倍音とノイズの間を往復するような音響世界を作り上げた。
また、伊左治直の合唱曲《月夜の成層圏》にはブルガリア民謡の拍子感が巧みに組み込まれている。つまり、この“いびつなハーモニー”は、単なる民俗遺産ではなく、現代音楽にとっての刺激的な触媒なのだ。
結び
ガムランが“揺らぎ”を、グリオが“語り”を、そしてブルガリアのポリフォニーは“不協和の緊張”を示した。声は土地の空気を震わせ、倍音は山脈の稜線をなぞる。次回、私たちが耳を澄ますのはどこか。音の地球儀は、また静かに回転を始めている。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。