[妄想コラム]もしも19世紀にレコーディング技術があったなら ── “本物のベートーヴェン”が残した世界線のクラシック史

もしも19世紀にレコーディング技術が存在していたら ── 。この「ありえたかもしれない世界線」を想像すると、クラシック音楽の歴史は根底から変わっていた可能性が高い。ベートーヴェンやショパン、リストといった巨匠たちの演奏が鮮明に残され、それが“正解”として受け継がれていく世界。演奏家たちは果たして、録音された“本物の解釈”にどれほど縛られ、あるいは刺激されて進化したのか。


19世紀録音という空想は単なるSFではなく、「音楽とは何か」「演奏とは何か」を揺さぶる思考実験でもある。本稿では、もしも巨匠の演奏が残されていた場合、クラシック音楽の未来はどう変わったのか、その壮大なifを妄想の限りに探ってみたい。

“録音ベートーヴェン”の衝撃

19世紀のウィーン。鉄器時代の産業革命が街の空気を変え始めたその頃、もしも試作的な録音機器がすでに誕生していたとする。エジソンより半世紀早く、何者かが「音を保存する機械」を開発してしまったのだ。

そして、その初期の録音装置を使って記録されたのが ── ベートーヴェンの演奏。

耳が完全に遠くなり、鍵盤を叩くように弾いていたと言われる晩年の彼のピアノ。もしその荒々しくも情念に満ちたフォルテが、弱音が、テンポの揺れが、実際の音として現代に残されていたら、クラシック界は間違いなく震撼していたはずである。

たとえば《ピアノソナタ第23番「熱情」》。現代の多くの演奏では、程よい構築美とバランスを追求した均整の取れた解釈が主流である。しかし“録音ベートーヴェン版”が存在していた世界線では、まったく違った潮流が生まれただろう。彼が激しいリズムの揺れを入れていたなら? 驚くほど速いテンポで弾いていたなら? あるいは逆に、意外なほど遅いテンポで情念をねっとりと引きずるように弾いていたなら?

すべてのピアニストが、その“正解”を参照しなければならなくなる。現代の指揮者がスコアを読み解く前に録音を聴いてしまうように、19世紀録音が存在していれば、演奏家はまず巨匠の音を“確認”する文化が生まれたはずである。クラシック音楽は、今よりずっと「創造性より再現性」に価値が置かれる芸術へ傾いていた可能性がある。

ショパンの演奏が残っていたら“ルバート問題”は永遠に決着していた

クラシック音楽史の中でも、演奏解釈が最も議論される作曲家のひとりがショパンである。特に“ルバート” ── テンポを伸び縮みさせる表現 ── はショパン特有のニュアンスとして知られるが、彼自身がどれほど揺らしていたのかは完全には分かっていない。ところが、ショパン本人の演奏録音がもし残っていたらどうだろう。

ある研究者は「ショパンは右手だけを自由に揺らし、左手はメトロノームのように一定だった」と述べ、別の研究者は「いや、両手とも自由だった」と書く。この“解釈の揺れ”こそクラシックの醍醐味でもあるが、録音が残っていた世界では議論はそもそも生まれなかったかもしれない。

そして、ショパンの繊細な弱音、ペダルワーク、歌うような節回し。それらが19世紀の空気ごと録音されていたのなら、現代のピアノ教育はまるで違う形になったはずだ。ショパンの《ノクターン》はもっとふわりと揺れ、《バラード》はより劇的で、《エチュード》はより踊るように演奏されていた可能性がある。

録音ショパンが存在した世界線では、「ショパン弾き」と呼ばれるピアニスト像も今とは違い、“ショパン本人にどれだけ似せられるか”という再現芸術的な競争が生まれていたかもしれない。

リストの超絶技巧録音が生んだ“19世紀版ビルボードチャート”

忘れてはならないのが、超絶技巧のピアニスト、フランツ・リストである。

リストは当時から“スーパースター”と呼べる存在であり、彼のリサイタルはまるでロックスターのライブのような熱狂に包まれていた。そんな彼の《超絶技巧練習曲》や《死の舞踏》が19世紀録音として残っていたら、彼はクラシック界どころかポピュラーミュージックの概念を先取りしていた可能性がある。

想像してみてほしい。

・ウィーンの街頭には「最新録音!リスト演奏《ラ・カンパネラ》」の張り紙
・地方の貴族が自宅の蓄音機でリストを楽しむ
・録音売上が新聞でランキング形式で発表される
・リストが“録音スタジオ・テクニック”の第一人者になる

もしかすると、19世紀の音楽文化は20世紀のレコード産業を100年先行していたかもしれない。現代でいうSpotifyやYouTubeのような“聴かれる音楽”の文化が、より早く成熟していた可能性すらある。

クラシック音楽は、より「大衆文化」として発展したか、あるいはもっと強烈に「スターシステム」が形成されていたか。録音リストは、想像すればするほど歴史を変える存在である。

演奏スタイルの固定化という“功罪”

ここまでの妄想が生み出す結論はひとつ。19世紀録音が存在していた世界では、クラシック音楽の演奏スタイルが今よりずっと固定化されていたという可能性である。

現代のクラシック界は多様性に満ちている。古楽器演奏から現代楽器の新解釈まで、時代ごとに演奏スタイルは変化し、実験が繰り返され、議論は進化してきた。

だが、ベートーヴェンの“本物のテンポ”が残っていたとしたら?
ショパンの“正しいルバート”が録音で決定されていたなら?
リストの“超絶技巧の正解”がすでに示されていたのなら?

演奏家たちはその「巨匠の音」を基準にせざるを得ない。教本は巨匠の録音を分析したものばかりになり、演奏科の学生はまず“模倣”を叩き込まれる文化が生まれていたはずだ。クラシック音楽はより保守的になり、革新の余地は狭まり、“正解主義”が支配した可能性がある。それは理解しやすい反面、音楽の多様性を大きく損なう側面も持つ。

一方で、クラシック界は技術革新でさらに進化していたかもしれない

しかし、悪いことばかりではない。19世紀録音が存在した場合、録音技術もまた100年早く進化していた可能性がある。

・19世紀末にはすでにステレオ録音が登場
・20世紀初頭には編集技術が確立
・シンセサイザーの発明も早まる
・録音を前提とした作曲が一般化する
・映画音楽が19世紀終盤から制作される

もしかすると、ワーグナーやブラームスが「録音を考慮した作曲」を行い、空間的なサウンドデザインをすでに取り入れていたかもしれない。マーラーが「録音版交響曲」を作った可能性も十分にある。ドビュッシーは録音スタジオでミキサーと議論していたかもしれない。

そうなると、クラシックと現代音楽、さらにはポピュラーミュージックの境界は曖昧になり、音楽史全体がまったく違う地図を描いていたはずである。

結論:録音がなかったからこそ、クラシックは自由で、多様で、豊かになった

“もしも”の世界を妄想してみると、録音の力がいかに強烈かが分かる。録音は歴史を固定し、正解を生み、権威を創り上げる。それが巨匠たちの演奏であればなおさらだ。

だが、実際の歴史では19世紀には録音がなかった。だからこそ、演奏家たちはスコアと向き合い、自分の解釈を探し、表現の多様性を育んできたのである。

クラシック音楽は“録音の不在”という空白によって、むしろ自由になった。その自由が、歴史を豊かにし、解釈の幅を広げ、文化を成熟させた。

そして ── だからこそ、私たちは妄想できる。ベートーヴェンはどんな音で鍵盤を叩いていたのか。ショパンはどれほど歌っていたのか。リストの技巧はどれほど人間離れしていたのか。録音が存在しなかったからこそ、彼らは永遠に私たちの想像力を刺激し続ける。そして、その“欠落”こそが、クラシック音楽の最大の豊かさなのだ。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

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