
もし18世紀のウィーンで、モーツァルトやハイドンの音楽が宮廷だけでなく、街角の広場、タバコショップ、さらには酒場でも日常的に演奏されていたらどうだろうか。現在のポップチャートのように、交響曲やソナタが流行し、クラリネットやヴァイオリンのリフが街のBGMになっていたら、音楽の歴史は根本的に変わっていただろう。
この仮想世界では、モーツァルトの「トルコ行進曲」がラジオで毎日流れ、ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭の「ジャジャジャジャーン!」は子供たちのテーマソングとして知られている。音楽は高尚な芸術であると同時に、生活に根付いた娯楽であり続けたのである。
バロックとロックの邂逅
もしクラシックが大衆音楽化していたなら、20世紀のロックとの融合は避けられなかった。1960年代、ザ・ビートルズやローリング・ストーンズは、バッハやヴィヴァルディの旋律を積極的に取り入れただろう。ギターリフの背後にチェンバロの音色が響き、オルガンのパイプ音がサイケデリック・ロックと混ざり合う世界。バロック音楽がロックフェスのヘッドライナーを飾る光景も夢ではない。
交響曲がラジオで流れる世界
1920年代、ラジオ放送が普及すると、クラシックはさらに生活に密着する。交響曲がチャート入りし、リスナーはお気に入りの指揮者の番組を毎週楽しむ。マーラーの交響曲第2番「復活」がラジオヒットになる時代。映画音楽もこの流れに乗り、ハリウッドのサウンドトラックは交響曲的スケールを持つようになる。
クラシックとアイドル文化の融合
もしクラシックが日常音楽として生き残った世界では、現代のアイドルやポップスターもオーケストラと共演するのが当たり前だっただろう。AKB48やBTSのようなグループがフルオーケストラをバックにパフォーマンスし、ベートーヴェンの旋律に合わせてダンスを踊る。クラシックは特権階級だけのものではなく、文化的アイコンとして一般人の心をつかんでいたのである。
デジタル時代に生きる大衆クラシック
21世紀、デジタル配信とSNSの時代に入っても、クラシックは衰えない。SpotifyやYouTubeのプレイリストに交響曲や協奏曲が並び、毎日の通勤や通学で聴かれる。AI技術により、リスナーごとに最適化されたクラシック演奏が生成され、バーチャルライブでお気に入りの指揮者と共演する体験も可能だ。
現代音楽への影響とグローバル展開
もしクラシックが大衆音楽として存続していたら、現代音楽はさらに深く豊かになったはずだ。ジャズ、ヒップホップ、エレクトロニカはすべてクラシックの和声と構造に依拠し、異文化間の交流も一層進む。クラシック旋律のサンプリングが当たり前となり、映画、広告、ゲーム、SNSコンテンツで日常的に響く。
この世界では、クラシックは高尚な芸術としてだけでなく、人々の心の中に常に息づく「ポップ文化」である。モーツァルトのピアノソナタはTikTokでバズり、バッハのフーガは映画のBGMとして世界中に共有される。

結論:クラシックの永遠の大衆化
もしクラシックが大衆音楽として残っていたら、音楽文化は今とは全く異なる形をしていたに違いない。高尚な芸術と日常的娯楽の境界は曖昧になり、世界中の人々が毎日の生活の中で交響曲や協奏曲を聴き、演奏し、踊り、楽しむ。
歴史は現実としてひとつしか存在しないが、妄想の中ではクラシックは永遠の大衆音楽として生き続ける。音楽が人々の心に息づく限り、その可能性は無限である。
※本コラムは筆者の妄想です。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。