
小樽と札幌というキーワード
サカナクションの音楽を耳にすると、不思議なことに「土地の匂い」が立ち上がってくる瞬間がある。ただの旋律でも、抽象的な詩でもない。胸に迫るのは、冬の坂道を吹き抜ける風の鋭さであり、夏の港に漂う潮の香りであり、夜釣りの静寂に混じる波の音である。そこには確かに北海道、そして小樽という町の景色が息づいている。
山口一郎というアーティストの根にある小樽は、彼の楽曲の中で姿を変えながら繰り返し現れ、聴き手を旅へと誘う。聖地巡礼とは、ただ作品の舞台を訪れることではない。そこに描かれた情景を自らの足で確かめ、音楽に宿る「土地の記憶」を身体でなぞる行為である。サカナクションの楽曲と小樽・札幌という二つの都市は互いを映し合い、聴き手はそのはざまを歩む巡礼者となる。


東京と小樽のあいだで
2015年に発表された「Eureka」(2014)は、心身を病み、創作の岐路に立たされた山口一郎が紡ぎ出した曲だ。歌詞には東京での孤独と、小樽という故郷の温度が対比されている。東京のビル群を吹き抜ける乾いた風と、小樽の港に漂う湿った潮風。その違いは景色の差にとどまらず、彼の精神のありようを映し出している。
もし夜の小樽運河に立ち、イヤホンから「Eureka」を聴けば、遠くにあるはずの東京の気配が不思議と近づいてくる。地図の上で測る距離ではなく、心の揺らぎによって測られる距離。その曖昧な感覚こそが、この曲の核心である。
「ナイロンの糸」はアルバム『834.194』(2019)に収録され他作品だ。このタイトルは単なる比喩ではない。山口が幼少期に実際に手にしていた釣り糸の記憶から生まれた。小樽の海で友と並び、夜の防波堤に腰を下ろし糸を垂れる。波音と沈黙に包まれたそのひとときは、彼にとって原風景となり、曲の中に結晶した。
祝津海岸や小樽港の防波堤に立てば、潮の匂い、夜風の冷たさ、遠くの漁火の瞬きが、聴く者を過去へと連れ戻す。耳元でこの曲を流すと、音楽はただの旋律を超え、失われた時間を呼び覚ます「記憶の装置」と化すのである。
「LightDance」(2011)に登場する「坂の上、白い家」という言葉は、単なるイメージではなく、実際に小樽・富岡の高台にあった山口の実家を指している。そこから見下ろす港町の景色は、彼にとって消えることのない原風景であった。
富岡はJR小樽駅から徒歩圏内にあり、小樽市指定歴史的建造物であるカトリック富岡教会で知られているエリアだ。小樽は北海道西部に位置する港町で、歴史ある運河や石造りの倉庫群が特徴だ。明治から昭和初期にかけて商業や貿易の拠点として栄え、現在はその歴史的景観を生かした観光地として人気がある。寿司やガラス工芸、音楽盒(オルゴール)なども有名で、北海道の中でも観光都市として知られている。

さて富岡から旭展望台へと続く坂道を登ると、街と海と空が一体となる光景が広がる。夕暮れ、家々に灯がともり始める頃に立ち止まれば、歌詞が風景と重なり、音楽が再び息を吹き返す。言葉が風景となり、風景が音楽となる。その交錯の瞬間に立ち会えること自体が、巡礼の醍醐味なのだ。
札幌のライブハウスに刻まれた熱
小樽が静けさと郷愁を象徴するなら、札幌は熱と躍動の象徴である。「Sen to Rei」「Native Dancer」といった初期の代表曲は、札幌のラジオやライブハウスの空気の中で育まれた。2009年のライブ盤『Fish Alive』には、札幌・Penny Lane 24での熱気あふれる演奏が収録されている。
札幌は山口一郎が高校進学以降、過ごしたまちでもある。もちろん都市規模は札幌の方が圧倒的に大きい。Penny Lane 24は札幌でも老舗のライブハウスだが、都心部ではなく西区に存在する。熱心なライブファンが集まる場所だ。
今も現役のその会場を訪れれば、壁や床に刻まれた音の記憶に触れることができる。小樽の静けさと札幌の熱気。その往復運動こそがサカナクションの音楽を形作り、聖地巡礼という旅の導線となるのである。サカナクションの音楽における「北海道」とは、背景や舞台装置ではなく、音そのものに組み込まれた要素である。小樽の坂を登るときの息切れ、冬の雪を踏む音、海辺に漂う潮風。そうした具体的な感覚を伴ったとき、音楽は抽象を超え、風景として存在し始める。
「Eureka」の切望、「ナイロンの糸」の郷愁、「Light Dance」の原風景。それらは小樽に根を張りながら、札幌の響きと呼応する。巡礼の核心は、その響き合いを自分の身体で確かめることにある。他の土地では決して再現できない感覚が、ここ北海道には宿っている。
音楽が旅となる瞬間
聖地巡礼とは、音楽を再び風景へと還す営みである。小樽の海や坂に立ち、札幌の街を歩きながら耳を澄ませば、作品は音を超え、光や匂いや記憶を伴った現実となる。
北海道という広大な土地を移動しながら聴くサカナクションの曲は、「距離」というテーマを体感させる。東京と小樽、静けさと喧噪、過去と現在。そのあわいに身を置くことが、ファンにとって唯一無二の旅となる。音楽は再生ボタンを押すだけでは始まらない。その土地に足を運び、風を吸い込み、景色に身をゆだねるとき、初めて立ち現れるのである。
北海道でしか味わえない濃密な共鳴。サカナクションの作品世界は、そこでこそ真の姿を現す。巡礼者は歩き、聴き、感じることで、音楽を風景として、風景を音楽として心に刻む。その旅は一度きりでありながら、何度でも蘇る記憶となり、人生の奥深くに息づき続けるのだ。

増淵敏之:法政大学文学部地理学科教授、専門は文化地理学。コンテンツツーリズム学会会長、文化経済学会〈日本〉特別理事、希望郷いわて文化大使、岩手県文化芸術振興審議会委員、NPO氷室冴子青春文学賞特別顧問など公職多数。Yahooエキスパートコメンテーター。主な単著に2010年『物語を旅するひとびと』(彩流社)、『欲望の音楽』(法政大学出版局)、2012年『路地裏が文化を作る!』(青弓社)、2017年『おにぎりと日本人』(洋泉社)、2018年『ローカルコンテンツと地域再生』(水曜社)、2019年『湘南の誕生』(リットーミュージック)、2020年『伝説の「サロン」はいかにして生まれたのか』(イーストプレス)、2021年『白球の「物語」を巡る旅』(大月書店)、2023年『韓国コンテンツはなぜ世界を席巻するのか』、2025年「ビジネス教養としての日本文化コンテンツ講座」(徳間書店)など多数。1957年、札幌市生まれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、学術博士。NTV映像センター、AIR-G’(FM北海道)、東芝EMI、ソニー・ミュージックエンタテインメントにおいて放送番組、音楽コンテンツの制作及び新人発掘等に従事。








