
都市の夜が静かに深まる頃、耳をつんざくような高音ではなく、身体の内側から振動するような低音が鳴る。理屈ではなく、鼓動や呼吸のリズムとシンクロするようなその音を、人は「ベース」と呼ぶようになった。
本連載の締めくくりとしてたどり着いたのは、21世紀のロンドンから始まったダブステップ、そしてそこから世界中へ広がったベースミュージックの現在地である。それは、単なるジャンルの変遷ではない。低音をめぐる感覚の進化であり、技術と感情が出会ったその果ての風景なのだ。
サウス・ロンドンの地下で鳴り始めた音
2000年代初頭、サウス・ロンドンの郊外にある小さなレコードショップやラジオ局から、奇妙に沈み込むような音楽が発信され始めた。ジャングル、ガラージ、グライム、そしてダブ ── それらを交配させたようなビート。キックドラムの間にぽっかりと空いた「間」と、地を這うようなサブベース。この新しい音を、人々は次第に「ダブステップ」と呼ぶようになった。
この動きの中心にあったのが、Croydonの名門レコードショップ「Big Apple Records」や、ダブステップの聖地とされるナイトクラブ「Plastic People」、そして伝説的なパーティ「FWD>>(Forward)」である。そこでは、低音がただの音ではなく、空間を震わせる「触感」へと変貌していた。
当初のダブステップを代表するのが、デジタル・ミスティックズ(マーラ & コーキ)、ローファー、スクリームといったアーティストたち。中でもマーラの音楽は、まるで都市の祈りのようで、ジャマイカのダブの精神性と、UK特有の内省的な空気が融合していた。
私が初めてPlastic Peopleのフロアでその音に身を任せたとき、踊っているというよりも「浮かんでいる」ような感覚に襲われた。何も起きていないようで、すべてがそこにある ── そんな静かなる熱狂が、このシーンの真髄だったのだ。
ベースが導いた新たなネットワーク
2000年代後半になると、ダブステップは急速に進化し、よりアグレッシブな方向へと拡張されていく。USに渡ったサウンドは、やがて「ブロステップ」と呼ばれるフェス向けのスタイルへと変貌し、スクリレックスの登場によって爆発的なブームとなった。
しかし、ロンドンのオリジナル・スピリットはそこで終わらなかった。ブリアルの登場である。彼の2007年作『Untrue』は、ベースミュージックというよりも、都市の孤独や記憶そのものを音にしたような作品だった。雑踏、携帯電話のノイズ、かすれた女性ヴォーカル、壊れかけのリズム。女性としてその音を聴いたとき、そこにはただのビート以上のもの ──「夜に帰る場所を探す誰かの心」があった。
その後、ベースミュージックはジャンルの枠を超えて、UKファンキーやポスト・ダブステップ、ジューク/フットワークなど多彩なスタイルへと分岐しながら、世界中にネットワークを広げていく。
ベルリンのシャクルトン、オランダのマーティン、日本のGoth-Trad、さらにはベース以降のフューチャービートを探求するコード9やIkonikaなど、アーティストたちは国境やジャンルを超えて「低音で会話する」文化を築いていった。
テクノロジーが紡ぐ身体と音の未来
いま、ベースミュージックという言葉には、単なる音楽ジャンル以上の意味がある。それは、フィジカル(身体)とデジタル(テクノロジー)の接点を探る方法であり、耳だけでなく、内臓や骨、皮膚で音を感じる「触覚的な芸術」なのだ。
そして現代のベースカルチャーは、サウンドシステム文化と再び結びつきながら、新しい空間を生み出している。SIRENのようなフェミニスト主導のパーティや、NTS Radio、Boiler Roomといったプラットフォームが、音楽を「聴く」ものから「共に生きる」ものへと変えていった。
私にとって、ベースミュージックとは問いかけである。「いま、わたしたちは何を感じているのか?」と。言葉ではなく、低音がその問いに答えてくれる。クラブのスモークのなかで、誰かと目を合わせずに、でも確かに何かを共有している。その瞬間のために、わたしたちは踊るのだ。
最後に ── ダンスミュージックの旅は終わらない
こうして振り返ってみると、ディスコから始まったこの音楽の旅は、常にマージナルな声に耳を澄ますことだった。社会の周縁で、声にならない声を音にして、ダンスという行為に託してきた。
それは、移民の記憶であり、労働者の怒りであり、クィアな喜びであり、女性たちの祈りでもあった。ダンスミュージックの歴史を知るということは、音楽そのものの変遷を追うだけではなく、「誰が、どこで、どんな風に、声を上げていたか」に触れることなのだと思う。
そして未来は、まだここにある。低音が鳴っている限り、ダンスフロアは生き続ける。
ご愛読ありがとうございました。あなたの耳と身体が、これからも素晴らしい音楽と出会えますように。では、フロアでまた。

Kei Varda:音楽文化研究者/ライター。ポストクラブ時代の感性と身体性に着目し、批評と記録の間を行き来する。特定の国や都市に属さない、ボーダーレスな語り口を好む。最近はリズムと都市構造の相関関係をテーマにした執筆に注力中。