[音の地球儀]第11回──声の城壁:グルジアのポリフォニーと信仰の旋律

民族音楽は、その土地の暮らしや風土、信仰、歴史を音に刻み込んだ、人類の“声”である。電子音が世界を席巻する今もなお、世界各地には太鼓や笛、声と手拍子だけで継承されてきた音楽文化が息づいている。この連載では、アフリカのサバンナからアジアの山岳地帯、南米の密林から極北のツンドラ地帯まで、世界中の知られざる民族音楽を訪ね歩く。単なる紹介にとどまらず、その背景にある文化や物語にも光を当て、音楽を通じて世界をより深く知る旅へと誘う。音の地球儀を、いま一緒に回しはじめよう。

もし「世界でもっとも美しい声の交差点はどこか」と問われたなら ── その答えに“グルジア”という名前が挙がることは、決して少なくないだろう。コーカサス山脈のふもと、小さな国グルジア(ジョージア)では、1000年以上も続く多声合唱の伝統が今も息づいている。それは単なる合唱ではなく、“声の建築物”とさえ呼ばれる立体的な響き。今回は、グルジア正教と民謡が育んだこの奇跡のポリフォニーに耳を澄ませる。高く積まれた声の石垣を、聴くことで登る旅へ ──。

声で築かれた聖なる構造物

「ポリフォニー(polyphony)」とは、多くの声が同時に、異なる旋律を奏でながらひとつの音楽を形作る技法である。西洋クラシック音楽ではルネサンス期の合唱やバッハのフーガが有名だが、グルジアのポリフォニーはそれらとは根本的に異なる。

まず注目すべきは、三声構成が基本であるという点。高音部、中音部、そして低音を担う“バス”に相当する声が分かれ、それぞれが独立したメロディーを持ちながら、合わさることで驚くべきハーモニーを築き上げる。だが、この三声が単に美しく調和するのではなく、時にぶつかり合い、時に不協和音ぎりぎりの緊張感を孕みながら、構造的な音響をつくりだしていく。

この響きは、聴くというより「包まれる」感覚に近い。耳だけでなく、胸や腹の内側から鳴るような共鳴 ── それは、まるで声だけで築かれた石の城壁に囲まれているかのようである。

また、西洋音楽では旋律に和声を加えていく「上から下」への構築が一般的だが、グルジアのポリフォニーはしばしば「下から積み上げる」ように形成される。これは、低音部がリズムと音階の基盤を担い、他のパートがそこに重なっていく構造のためである。ときに即興的な要素も入り混じり、歌うたびに違う“建築物”が出現する。

山と信仰が育んだ音

グルジアの地形は、音楽文化に深く影響を与えてきた。国土の大半が山岳地帯で、集落ごとに言語や習俗が異なり、それぞれに独自の音楽スタイルが存在する。

たとえば、イメレティ地方の歌はより滑らかで旋律的なのに対し、スヴァネティ地方のものは荒々しく、リズムが複雑で、しばしばトーン・クラスター(音の塊)に近い響きをもつ。カヘティ地方では、より叙情的で、旋律線の中に語りのニュアンスが感じられることも多い。こうした違いは、民俗学者たちにとっても研究対象となっており、音楽を通じて民族と地理の関係を読み解く貴重な資料となっている。

また、山岳地帯では声が遠くまで届くよう、発声が非常に強靭で腹から響かせるスタイルが多い。これもまた、グルジアのポリフォニーを他に類を見ないものにしている。風が強く、谷が深い場所では、声を放つだけで自然のリバーブが返ってくる。歌うことは、空間と対話する行為でもあったのだ。

加えて、グルジア正教会の存在を無視することはできない。宗教儀式の中で歌われる賛美歌(サクラル・チャント)は、古代からのポリフォニー様式を色濃く残しており、信仰と音楽が溶け合った神聖な空間をつくりだしている。

「チャクルロ」が宇宙を旅した日

1997年、NASAの無人探査機「ボイジャー」に搭載された「ゴールデン・レコード」。地球の音楽を宇宙に届けるこの企画に、グルジアの合唱曲『チャクルロ(Chakrulo)』が選ばれた。

『チャクルロ』は、もともとワイン作りの儀式で歌われる祝祭歌。高らかに歌い上げるソロと、力強く応える低音部。そこに第三の声が割って入るようにして、幾重にも絡み合い、まるで声が空中で舞いながら渦を巻いていく。

この楽曲の宇宙行きは、グルジアの人々にとって大きな誇りとなった。山々にこだまする祝祭の音が、やがて宇宙の静寂へと向かったのだ。

この出来事は、国内で大きく報じられただけでなく、教育現場でも紹介され、ポリフォニーが「国家的遺産」として再評価されるきっかけにもなった。

民俗から舞台へ──変容と継承

ソ連時代には、グルジアの伝統音楽もまた「民族芸能」として国家的に保護される一方で、舞台芸術としての演出も強く求められるようになった。ルスタヴィ・アンサンブルのようなプロフェッショナル合唱団は、民謡を洗練させ、国外のステージで披露することによって国際的評価を高めていった。

このような舞台芸術化は、グルジアの音楽を世界に知らしめる一方で、本来の土着性や即興性を抑えることにもなった。とくに現代都市に生きる若者にとっては、伝統と距離が生まれる時代もあった。

しかし、21世紀に入ってからは「原点回帰」の動きも強まっている。若い世代の間で、祖父母から歌を受け継ぐムーブメントが地方で広がり、女性やLGBTQ+による新しい合唱団も登場している。伝統を単に保存するのではなく、今の社会に響かせる形で“歌いなおす”時代が始まっているのだ。

声が守るもの

グルジアの音楽は、単なる郷愁ではない。それは、言葉を超えた記憶装置であり、民族のアイデンティティを支える土台である。

ポリフォニーという構造のなかで、声と声がぶつかり合い、支え合い、時に黙り、時に突き抜ける ── このダイナミズムこそが、グルジアという国の歴史と重なるのだ。

声は脆い。しかし、だからこそ強い。形がないからこそ、何百年にもわたって受け継がれる。山の中で、教会で、家庭で、そして旅先で ── グルジアの人々は、今日もまた三つの声で世界を築いている。

また近年では、グルジアのポリフォニーが西洋の作曲家や映画音楽にも影響を与えている。たとえば、クロノス・カルテットとの共演や、映画『コーカサスの白い道』の劇伴などに、その音の残響が感じられる。声は、国境を越え、ジャンルを横断して響いていく。

結び ── 声が石になる国へ

旅の終わりに、グルジアのある村で聴いたポリフォニーを思い出す。焚き火を囲んで、老若男女が輪になり、特別な衣装もマイクもなく、ただ声だけで音楽を作っていく姿。

高音がふわりと夜空に溶け、中音がそれを支え、低音が地面を震わせる。そうやって歌われた一曲は、まるで石をひとつひとつ積み上げていくようだった。

そして気づく。ポリフォニーとは、声で築かれた“記憶の城壁”なのだと。グルジアの音楽は、これからも崩れることなく、風と共に高く、深く響いていくだろう。

Sera H.:時代を越える音楽案内人/都市と田舎、過去と未来、東洋と西洋。そのあわいにいることを好む音楽ライター。クラシック音楽を軸にしながら、フィールド録音やアーカイブ、ZINE制作など多様な文脈で活動を展開。書くときは、なるべく誰でもない存在になるよう心がけている。名義の“H”が何の頭文字かは、誰も知らない。

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