[轟音の記憶 – ヘヴィメタル50年史]第3回:地獄の饗宴 – スラッシュとエクストリームの爆発

悪魔が教会を襲った夜

1985年9月19日の夜、ワシントンD.C.の一室で、アメリカ音楽史上最も物議を醸すことになる会議が開かれていた。参加者は上院議員の妻たちを中心とした保守的な女性グループ。

彼女たちの手には、一枚のアルバムジャケットがあった。そのアルバムは、悪魔的で暴力的なイメージで知られるバンド、スレイヤーのデビューアルバム『Show No Mercy』や、その他のメタルバンドの作品だった。彼女たちは、それらの音楽が表現する過激な世界観に震え上がった。「これは音楽なのか、それとも悪魔崇拝なのか?」

この瞬間から、ヘヴィメタルと保守的なアメリカ社会との全面戦争が始まったのである。しかし、なぜ1980年代中期になって、メタルはこれほどまでに過激になったのか。その背景には、音楽そのものの進化と、社会の変化が複雑に絡み合っていた。

スピードという名の麻薬

1983年、サンフランシスコの小さなライブハウスで、音楽史を変える瞬間が訪れた。メタリカというバンドが演奏していた楽曲のテンポは、従来のヘヴィメタルの常識を遥かに超えていた。ドラムスは機関銃のように連打され、ギターリフは切れ味鋭いナイフのように聴衆の耳を切り裂いた。

これが「スラッシュメタル」の誕生だった。「スラッシュ」とは「切り裂く」という意味である。まさに、従来のメタルの概念を切り裂く革命的な音楽だったのである。

メタリカを率いていたのは、デンマーク系移民の息子であるラーズ・ウルリッヒと、ロサンゼルスの不良少年だったジェイムズ・ヘットフィールドだった。彼らは1981年にバンドを結成した時、既に明確な目標を持っていた。「もっと速く、もっと重く、もっと攻撃的に」。これが彼らの信条だった。

しかし、なぜ彼らはそれほどまでに「速さ」にこだわったのか。その答えは、当時のアメリカ社会の状況にある。1980年代のアメリカは、レーガン政権下で表面的には好景気を謳歌していた。しかし、若者たちの間では薬物の蔓延、暴力犯罪の増加、そして将来への不安が高まっていた。

従来のヘヴィメタルでは、もはやその焦燥感を表現しきれなくなっていたのである。より速く、より激しい音楽こそが、彼らの内面を表現する唯一の手段だった。

ビッグ4の誕生と覇権争い

スラッシュメタルシーンで頂点に立ったのが、「ビッグ4」と呼ばれる4つのバンドである。メタリカ、スレイヤー、メガデス、そしてアンスラックス。この4バンドは、それぞれ異なるアプローチでスラッシュメタルを発展させた。

メタリカは、1986年の「Master of Puppets」で芸術的な完成度を追求した。8分を超える楽曲「Master of Puppets」は、薬物依存の恐怖を描いた叙事詩的な作品だった。しかし皮肉なことに、アルバムリリース後のツアー中にベーシストのクリフ・バートンがバス事故で死亡してしまう。彼の死は、スラッシュメタルシーンに衝撃を与えた。

一方、スレイヤーは徹底的な過激さを追求した。1986年の「Reign in Blood」は、わずか29分という短さながら、凄まじい破壊力を持つアルバムだった。特に冒頭の「Angel of Death」は、ナチスの人体実験を題材にした楽曲として大きな論争を呼んだ。

メガデスは、メタリカから追放されたデイヴ・ムステインが結成したバンドだった。彼の復讐心は音楽に昇華され、技術的に最も高度なスラッシュメタルを生み出した。1990年の「Rust in Peace」は、スラッシュメタルの技術的な頂点を示す傑作となった。

アンスラックスは、ニューヨーク出身という地理的な違いから、独特のユーモアセンスを持っていた。彼らは重厚な音楽の中にも遊び心を忘れず、スラッシュメタルに新たな可能性を示した。

地獄の門が開かれた時

しかし、スラッシュメタルでさえ、一部のミュージシャンにとっては「まだ生ぬるい」ものだった。1980年代後半、フロリダ州タンパとスウェーデンのストックホルムで、さらに過激な音楽が誕生していた。

フロリダでは、デスというバンドが「デスメタル」という新たなジャンルを創造した。リーダーのチャック・シュルディナーは、従来のメタルボーカルを完全に放棄し、人間の声とは思えないほど低い「デスグロウル」と呼ばれる歌唱法を開発した。

1987年にリリースされた彼らのデビューアルバム「Scream Bloody Gore」は、文字通り「血まみれの叫び」だった。歌詞は死体、腐敗、殺人といった極限的な内容で、音楽も人間の限界に挑戦するかのような複雑さと激しさを持っていた。

同じ頃、スウェーデンでも革命が起きていた。しかし、北欧のメタルバンドたちが選んだのは、デスメタルとは正反対の方向性だった。彼らは「ブラックメタル」と呼ばれる、より原始的で邪悪な音楽を追求したのである。

北欧に響いた異教の呼び声

ノルウェーのバンド、メイヘムが1984年に結成された時、彼らの目標は明確だった。「キリスト教文化を破壊し、古い北欧の信仰を復活させる」。これは単なる音楽活動ではなく、宗教的・政治的な運動だったのである。

メイヘムのボーカリスト、デッドは本名をペル・オーリン・オスロムという、ごく普通のスウェーデン人青年だった。しかし、舞台に立つ時の彼は全く違っていた。顔には死体のような白い化粧を施し、ステージ上で豚の頭を振り回したり、自分の体をナイフで切りつけたりした。

彼の行動は次第にエスカレートし、1991年、ついに猟銃で自殺してしまう。その時、バンドメンバーのユーロニムス(オイスタイン・オーシェット)が取った行動は、常識を超えていた。彼はデッドの死体を写真に撮り、それをアルバムジャケットに使用したのである。

さらに悲劇は続いた。1993年、ユーロニムス自身が元メンバーのヴァルグ・ヴィーケネス(バーズム)によって殺害されてしまう。この事件は、ブラックメタルシーンに決定的な衝撃を与えた。

教会が燃えた夜

しかし、最も社会問題となったのは、ノルウェーで起きた教会放火事件だった。1992年から1995年にかけて、ノルウェー各地で50以上の歴史的な木造教会が放火された。犯人の多くは、ブラックメタルバンドのメンバーや関係者だった。

彼らの動機は、キリスト教に対する根深い憎悪だった。彼らにとって、キリスト教はノルウェーの古い文化を破壊した「侵略者の宗教」だったのである。教会を燃やすことで、古いノルウェーの神々を復活させようとしたのである。

この事件は、世界中のメディアで大きく報道された。「悪魔崇拝者たちが教会を燃やした」「メタルミュージックが若者を狂わせた」といった見出しが新聞を飾った。ブラックメタルは、音楽ジャンルを超えて、社会現象となったのである。

検閲という名の戦争

アメリカでは、メタルバンドに対する検閲の動きが激化していた。1985年に設立されたPMRC(Parents Music Resource Center)は、「問題のある」音楽に警告ラベルを貼ることを義務化しようとした。

この運動の中心にいたのが、後に副大統領となるアル・ゴアの妻、ティッパー・ゴアだった。彼女は上院の公聴会で、スラッシュメタルやデスメタルの歌詞を朗読し、「これらの音楽は青少年に有害である」と主張した。

しかし、この検閲運動は思わぬ結果をもたらした。「禁止された音楽」というレッテルが、かえって若者たちの興味を引いたのである。警告ラベルの貼られたアルバムは、むしろよく売れるようになった。

メタリカのジェイムズ・ヘットフィールドは、後にこう語っている。「彼らは俺たちを悪魔にしたがった。だから俺たちは、彼らの期待に応えてやったんだ」。

過激さの限界への挑戦

1980年代後半から1990年代初頭にかけて、メタルバンドたちは「どこまで過激になれるか」という限界に挑戦し続けた。音楽的には、より速く、より重く、より複雑に。歌詞では、より暴力的で、より冒涜的で、より禁忌的な内容に。

しかし、この過激化の背景には、単なる話題作りではない深刻な問題があった。冷戦の終結、湾岸戦争、経済格差の拡大など、世界は急速に変化していた。従来の価値観では説明できない現実に直面した若者たちにとって、極限的な音楽こそが唯一の表現手段だったのである。

デスメタルの歌詞が死と暴力を歌うのは、生きることの困難さを表現するためだった。ブラックメタルが宗教を攻撃するのは、既存の価値観に対する根本的な疑問を提起するためだった。

地獄からの生還

1990年代初頭、過激化の波は一つの頂点に達した。ノルウェーの教会放火事件、フロリダでの複数の殺人事件など、メタルシーンは文字通り「地獄」と化していた。

しかし、この極限状況の中で、新たな可能性も生まれていた。スラッシュメタルの技術的な発展は、後のプログレッシブメタルの基礎となった。デスメタルの複雑な構造は、音楽理論の新たな地平を開いた。ブラックメタルの原始的な美学は、後のポストブラックメタルやアトモスフェリックブラックメタルの源流となった。

そして何より重要なのは、この時代のメタルバンドたちが、表現の自由という民主主義の根本的な価値を守り抜いたことである。検閲や弾圧に屈することなく、自分たちの信念を貫き通した。

1990年代前半、グランジブームによってメタルシーンは一時的に沈静化する。しかし、この「地獄の饗宴」で鍛えられた音楽的な遺産は、後の世代に確実に受け継がれていく。

メタリカの「Master of Puppets」、スレイヤーの「Reign in Blood」、デスの「Scream Bloody Gore」、メイヘムの「De Mysteriis Dom Sathanas」。これらの作品は、音楽の可能性を極限まで押し広げた記念碑として、今なお多くのミュージシャンに影響を与え続けている。

過激さを追求したこの時代は、確かに混乱と破壊をもたらした。しかし同時に、音楽というアートフォームの可能性を大きく拡張した、創造的な時代でもあったのである。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。

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