
いま、どこかの地下フロアで、あの音が鳴っているかもしれない──。ドライなハイハット、ざらついたベースライン、トランペットが叫ぶ。マイルス・デイヴィスがまだ生きていて、しかも現代のクラブシーンに生きていたならば、いったい音楽はどうなっていたのだろうか。この問いは、たんなる「ジャズの人がEDMをやったら面白いよね」という安直な話ではない。むしろそれは、ジャンルという言葉自体を再定義し、音楽における“変化”という現象の核心に触れるものだと思っている。
トランペットはなぜ踊らなかったのか?
マイルスが活躍していた1950〜70年代、ダンスとジャズの関係はすでに微妙な距離を取り始めていた。ニューオーリンズ・ジャズやスウィング時代はダンス・ミュージックとしての役割を担っていたが、ビバップ以降のジャズは、踊る音楽というよりも“聴く”音楽へとシフトしていた。そこにマイルスが登場し、モード・ジャズやフュージョン、さらにはファンク的アプローチで再び身体性を取り戻そうと試みたのは、ある種の「ジャズの再ダンス化」と捉えることもできる。
では、2020年代の現在、クラブミュージックとマイルスの出会いはどうなっていたか? 答えは明白だ。マイルスは間違いなくナイトクラブで演奏していた。
ロンドンのジャズ・リバイバル・シーン、たとえばシャバカ・ハッチングスやエズラ・コレクティヴらが形成する「踊るジャズ」は、明らかにUKガラージやドラムンベース以降の身体性を備えている。あるいはLAビート・シーンから生まれたサンダーキャットやフライング・ロータスのように、ジャズの遺伝子がビートミュージックと結びついてきた現代なら、マイルスがその中心にいるのは不思議ではない。
「テクノ以降」のマイルス──クラブに吹き込む革命
もしマイルスが2020年代に生きていたら──いや、「生き返った」と仮定しよう──彼はまずベルリンへ飛ぶ。Berghainのようなテクノの聖地で、観客の汗とスモークに満ちた空間にトランペットを持ち込むだろう。マイルスの音は生楽器であるが、あくまでそれは“出発点”にすぎない。彼はサンプリングもモジュラー・シンセも、AIによる即興生成技術さえも味方につけたに違いない。
思い出してほしい。1970年代の『Bitches Brew』ではすでに、マイルスはミュージシャンというより「キュレーター」だった。膨大な音の断片を集め、編集し、方向性を与え、作品として結晶化させていた。これは、現代のDJやビートメイカーときわめて近い態度である。
彼がAbleton Liveを触らない理由はどこにもない。逆にいえば、Abletonが彼の音楽思考を最も自由にする装置となる可能性さえある。
ジャズ×クラブの架け橋は、もう始まっている
ここで妄想を少しだけ現実に接続しよう。たとえばロンドンのフローティング・ポインツや、トランペット奏者マシュー・ハルソールが構築している「エレクトロニック×ジャズ」の世界。あるいは、ディーゴやカイディ・テイタムのように、ジャズの文法をUKブロークンビーツで翻訳してきたアーティストたち。
また、ジャズを素材として再構築したハウスやテクノの先駆者たち ── ムーディマンやセオ・パリッシュの存在も忘れてはならない。彼らはデトロイトのジャズ・レコードを漁り、切り刻み、クラブに持ち込んだ。あれはある種の“マイルスの再発明”だったのではないか?
つまり、マイルスが現代にいたら、彼はこうした流れを加速させ、ジャズとクラブの関係を完全に再編成していた可能性がある。
「ソロ」の意味すら再定義される
現代のクラブシーンでは、いわゆる“楽器のソロ”は重要視されていない。DJがループを回し、グルーヴを構築し、ある意味では集団的な没入感を優先している。しかし、マイルスはこの文脈においても強烈な個を放っただろう。
彼のソロは「技巧を見せる」ものではなく、「空間に痕跡を刻む」ものであった。間、沈黙、スラー ── それらを使いこなし、ノイズと静寂のあいだに立ち現れる音。それは、ブレイク明けのビートが落ちる瞬間と同じくらいの衝撃をクラウドに与えるはずだ。
つまり、彼のトランペットはもはや「ソロ」ではなく、ビートと同等の構成要素として、セットの中で再配置されることになる。
ブースの中には、DJの横でミュート・トランペットを抱えたマイルスが、マスク越しに観客を睨んでいる。

“次のジャンル”を作るのは、やはり異端者である
ここで、ひとつ大胆な仮説を述べたい。もしマイルス・デイヴィスが現代のクラブシーンに生きていたら、“次のジャンル”をすでに作っていた、ということである。
それはたとえば、「BPM120で回転するビートの上に、完全即興のトランペット・フレーズがリアルタイムでAIによって切り刻まれ、観客の脳波に合わせて再構成される音楽」かもしれないし、「ジャズの楽理をベースにしながら、構成もアレンジも「観客の身体の動き」によって変化するフロア型アンサンブル」かもしれない。もしくは「ビートもトーンもない、完全な“感情だけ”で構成された空間型サウンド・スカルプチャー」かもしれない。
ジャンルの名称すら不要になるかもしれない。マイルスならばきっとこう言うだろう ──「名前なんていらない。ただ聴け。身体で感じろ」と。
最後に:もし彼がいたら、私たちはもっと自由だったか?
「もしマイルス・デイヴィスが現代のクラブシーンにいたら?」という問いの答えは、音楽的想像力に対する挑戦状である。彼が遺した最大の遺産は、音やフレーズではない。それは“変化することを恐れない意志”だった。
だから、今この瞬間にも、自宅のPCでビートを打ち込む誰かが、ふとコードの上にトランペットのラインをのせるとき──
そこにはマイルスがいるのだ。クラブのフロアではなく、音楽が未知であり続けるという事実の中に。
おそらく、音楽が変わるとは、マイルスがそこにいるということなのだ。

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。