
ブラジルの音楽は、ただのジャンルやリズムの集まりではない。それは広大な国土に根を張る無数の文化の交差点であり、歴史的な重層性と現代的な革新が常に交錯しているダイナミックな音の海だ。本シリーズでは、サンバの起源から現代のクラブシーンに至るまで、ブラジル音楽の成り立ちとその豊かな多様性を深く掘り下げ、21世紀の音楽シーンにおける新しい潮流を追いかける。
本コラムを通じて、伝統的なサウンドの中にひそむ革新や、地域ごとのユニークな音の魅力に触れ、ブラジル音楽が持つ無限の可能性を再確認できるだろう。サンバの叙情的な情熱、ボサノヴァの静けさ、アフロ・ブラジルの鼓動、そして電子音楽との融合 ── それらが織りなすメロディとリズムは、世界中のリスナーに強い影響を与え続けている。
この8回のコラムを通じて、ブラジル音楽がどのように地域性と世界性を交わらせ、時代を越えて進化してきたのかを紐解いていく。音楽というアートフォームを超え、ブラジル音楽は文化、政治、アイデンティティを語る重要なメディアであることを、改めて感じさせられるに違いない。
さあ、ブラジル音楽の世界に再び足を踏み入れ、その無限の魅力を心ゆくまで味わってほしい。
2000年代以降のブラジル音楽を語るとき、ひとつのキーワードが浮かぶ。それは「クロスオーバー」である。サンバでも、ボサノヴァでも、ファヴェーラビートでもない。いや、むしろそれらすべてを呑み込みながら、境界を溶かし、次の形へと変容させる動きが、いまブラジル音楽の最前線で起きている。
この回では、そんな現代のブラジル音楽を形づくる3つの潮流を追いながら、“伝統のその先”を探ってみたい。
ローカルの再発見と再構築:MPB以後の音楽地図
かつてMPB(Música Popular Brasileira)は、政治と文化の交差点として60~70年代に黄金期を築いた。だが、現代のアーティストたちは、そのMPB的な枠組みさえ超え、ローカルの音を素材として再構築する。
たとえば、ドゥーダ・ビートは、ペルナンブーコ州レシフェ出身。ノルデスチ(北東部)のフォホーやレゲエ、MPBのメロディ感をポップスとして再編集し、痛々しいまでの恋愛を歌う。
彼女の音楽は“失恋を踊らせる”と言われるほど、感情のポップ化が巧み。内面の傷とビートが共存する感覚は、まさに21世紀的だ。
また、バイアナシステムはバイーア出身で、アフロ・ブラジル文化とダブ、レゲエ、ヒップホップ、カンドンブレをハイブリッドするバンド。音も映像も圧巻。
電子音楽とブラジルの再結合:クラブカルチャーの中の伝統
クラブ以降の感覚を取り入れたアーティストも多い。特にサンパウロでは、テクノ・ハウス・ベースとブラジル音楽を融合させる試みが活発である。
プロデューサーのテト・プレトは、ポリティカルでアバンギャルド。音楽を通じてジェンダーや階級への問いを発する存在。
また、バッジシスタやCashuのようなDJたちは、クラブを単なる遊び場ではなく、「音楽と政治の交差点」に変えている。彼女たちはしばしば、ファヴェーラ・サウンドやラテンアメリカのベースカルチャー、クィアな表現を織り交ぜながら、新しいパーティ=新しい社会の形を模索する。
グローバル・ブラジル──越境する言語とアイデンティティ
21世紀のブラジル音楽は、当然ながらグローバルともつながっている。かといって西洋的スタンダードに従うわけではない。むしろ、ブラジルでしか成り立たない音楽性を武器に、世界と対等に接続する。
例えば、リニケル。彼女はトランスジェンダーのシンガーで、ソウル/ファンクをベースにポルトガル語でエモーショナルに歌い上げる。
彼女のように、ジェンダーやアイデンティティの多様性を自然に表現するアーティストが増えていることは、音楽だけでなく社会の成熟とも関係している。
さらに、ブラジル音楽の名門レーベルMais Um Discosなどを通じて、海外の耳もローカルなサウンドに開かれている。21世紀のブラジルは、リオやサンパウロだけでなく、ベレン、レシフェ、マナウス、サルバドールといった各地から、グローバルな波を生み出しているのだ。
終わらない、ブラジル音楽の旅
「ブラジル音楽」と一口に言っても、それは一枚岩のジャンルではない。広大な国土と複雑な歴史、そして多様な文化が生み出す、無数の音の集合体である。
21世紀のブラジル音楽は、その多様性を抱きしめながら、古くて新しい何かを生み出し続けている。ジャンルを越えて、境界を越えて、さらには国を越えて──音楽はますます自由に、そして個人的になっている。
きっとこれからも、新たな才能があらゆる土地から現れ、私たちを驚かせてくれるだろう。ブラジル音楽の旅は、まだ終わらない。
【シリーズ完結によせて】
この8回のコラムを通じて、サンバの歴史からヒップホップの現在まで、多様なブラジル音楽の景色を駆け足で眺めてきた。だが、どのトピックにももっと深く潜る余地があり、語りきれなかった声がある。
だからこそ、もしあなたが何か心に残る音を見つけたなら、そこから先はあなた自身の旅だ。聴いて、調べて、出会って、好きになって ── 音楽はいつだって、そこにいる。
Obrigada pela leitura!
Muito amor e música para você!

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。