
1990年代に入り、アシッドジャズはロンドンの地下クラブ・シーンから次第に地上へと進出し始める。初期における実験性と選民性の強いムーヴメントは、この時期になると多くのリスナーに開かれたポピュラーな音楽としての側面を帯びるようになる。それを牽引したのは、レコードレーベルの戦略とアーティストたちの柔軟な音楽性、そして何より「踊れるグルーヴ」を求めるクラブ・カルチャーとの接続であった。
クラブ・シーンとの結託
アシッドジャズという言葉が生まれた1980年代末、ロンドンのクラブにはすでにレアグルーヴ、ソウル、ファンクといった黒人音楽を再評価する動きがあった。これは単なるDJカルチャーにとどまらず、当時の若者たちにとって「オーセンティックな音楽」への回帰であり、そこにはどこかジャズの自由さや知性を求める機運も感じられる。
そのような文脈の中で、アシッドジャズのサウンドは自然とクラブ・シーンに浸透していった。ライブバンドでありながら、DJカルチャーの精神 ── サンプリング感覚、反復の美学、そして“グルーヴ第一主義” ── をそのまま体現するアーティストたちが登場したのだ。
その代表格がインコグニートである。彼らは1981年のデビュー後一時活動を休止していたが、1991年に『Inside Life』で再始動。このアルバムで聴ける「Always There」は、クラブ・シーンにおいて即座にアンセムとなり、ジャズファンクとソウルを現代的にブーストしたかのような爽快なサウンドで人気を博した。ヴォーカリストとしてフィーチャーされたジョセリン・ブラウンの存在感も、ジャンルの垣根を越える強さを音に与えていた。
クロスオーヴァーの達人たち
1990年代初頭のアシッドジャズ・シーンでは、ジャンルの壁を軽々と乗り越える“クロスオーヴァーの達人”たちが次々と登場した。たとえばザ・ブラン・ニュー・ヘヴィーズは、ヒップホップとソウルを溶け合わせたグルーヴィーなサウンドで注目を集めた。1992年のアルバム『Heavy Rhyme Experience Vol. 1』では、グールー(ギャング・スター)やメイン・ソースなど、当時アメリカのオルタナティヴ・ヒップホップ・シーンの中心にいたラッパーたちとコラボレーションし、その音楽性の広がりを印象づけた。
また、ジャミロクワイの存在も特筆に値する。1993年のデビュー・アルバム『Emergency on Planet Earth』は、ファンク、ジャズ、ソウルをモダンなポップスに落とし込んだ作品であり、アシッドジャズをポピュラーミュージックとして確立させた点において歴史的意義がある。リーダーであるジェイ・ケイのカリスマ性と、スティーヴィー・ワンダーを思わせる音楽的ルーツの明確さ、そして卓越したファッションセンスは、アシッドジャズを一気にメジャーシーンへと押し上げた。
レーベルとプロデューサーの役割
この時期のアシッドジャズ隆盛を語る上で欠かせないのが、Acid Jazz Records の果たした役割である。同レーベルの設立者であるジャイルス・ピーターソンと Eddie Piller は、音楽だけでなく“ライフスタイルとしてのアシッドジャズ”を提唱し、レコードだけでなくクラブイベント、ファッション、アートワークなどを巻き込んで包括的なカルチャーとしての地盤を築いた。
また、Talkin’ Loud(ジャイルスが移籍後に立ち上げたレーベル)も重要である。同レーベルからはガリアーノやヤング・ディサイプルズ、さらには後のUKジャズ再興にも繋がるコートニー・パインらが登場し、アシッドジャズにとどまらぬ革新的な試みを展開した。
プロデューサーとしてのクリス・バングスの活動も特筆すべきである。彼はソウル・II・ソウルやデズリーのようなポップ・ソウルとアシッドジャズの間を自在に往復しながら、商業的成功と音楽的クオリティの両立を図った。
メディアとフェスの影響
こうしたサウンドの普及に伴い、BBC Radioや『Straight No Chaser』といった音楽雑誌、さらにはGlastonburyやBig Chillなどの音楽フェスティバルもアシッドジャズの舞台となった。メディアはジャズ・リヴァイヴァルを「知的な若者たちの新しいトレンド」として紹介し、シーンを拡大する装置として機能した。
特に注目すべきは、アシッドジャズが黒人音楽の再解釈としてではなく、あくまで「現代的でおしゃれなクラブ・サウンド」として紹介された点である。このポジショニングが、かつてのジャズが持っていた「高尚すぎる」印象を払拭し、新たなファン層を獲得する決定的な要因となった。
輸出されるアシッドジャズ
ロンドン発のアシッドジャズは、1990年代中盤にはヨーロッパ、アジア、アメリカへと飛び火していく。日本ではMondo Grosso(大沢伸一)や Kyoto Jazz Massive(沖野修也・好洋兄弟)らが、国内外のクラブシーンでアシッドジャズ以降のジャズ・ダンス・ミュージックを牽引する存在となった。
また、アメリカではグルーヴ・コレクティヴやバックショット・ルフォンク(ブランフォード・マルサリス主宰)が、アシッドジャズ的なアプローチを取り入れつつも、自国のジャズ/ファンク遺産を背景に独自のサウンドを展開していった。これにより、アシッドジャズは単なる英国発の一過性の流行ではなく、広範な“再文脈化されたジャズ”としての意味合いを持つようになる。
結語:ポップとしてのアシッドジャズ
このように1990年代前半のアシッドジャズは、クラブ・シーンと連動することで柔軟にその輪郭を拡大し、時にはポップとして、時にはサブカルチャーとして多様な顔を持つに至った。それは音楽ジャンルというよりも、「ある種のグルーヴ感」「都市生活者としての感性」「ジャズという語のもたらすイメージ」を共有する緩やかなネットワークであったといえる。
次回は、そのアシッドジャズが次第に大衆文化としての成熟を迎えると同時に、90年代末~2000年代初頭にかけて徐々に変質・再編されていく過程を見ていく。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。