[連載:GROOVEの錬金術]第1回:アシッドジャズ前夜 ── UKクラブカルチャーの胎動

1980年代後半、ロンドンの片隅でひとつの音楽的実験が静かに芽吹いていた。それは、ジャズ、ファンク、ソウル、ラテン、さらにはヒップホップの要素までもを巻き込み、DJカルチャーのフィルターを通して生まれ変わろうとしていた。後に「アシッドジャズ(Acid Jazz)」と呼ばれるこのジャンルは、当初から定義の曖昧さを内包しつつも、確かに存在した「新しい感覚」だった。その前夜、すなわちアシッドジャズという言葉が生まれる以前の音楽的・社会的背景を紐解くことは、このジャンルの核心を知る上で不可欠である。

レア・グルーヴと再評価の潮流

アシッドジャズの起源を語る上で欠かせないのが、「レア・グルーヴ(Rare Groove)」の再評価運動である。レア・グルーヴとは、1960~70年代にかけてリリースされたファンク、ソウル、ジャズ・ファンクなどの中で、商業的には成功しなかったが、音楽的には非常に先鋭的な楽曲を指す。こうしたレコードは、当時ほとんど評価されることがなかったが、ディガー(音楽探求者)たちの手によって再発見され、クラブでのプレイリストの中核を担うようになった。

このムーヴメントを牽引したのが、DJノーマン・ジェイである。彼の主宰する「Good Times」サウンドシステムは、Notting Hill Carnivalなどでレア・グルーヴを大胆にミックスし、街に流し続けた。また、BBC Radio Londonの番組「The Original Rare Groove Show」は、いわば音楽的文脈の書き換え作業ともいえる再発見の旅であり、多くの若者に70年代ファンクやジャズ・ファンクの面白さを伝えた。

例えば、ドナルド・バードの「Think Twice」や、ロイ・エアーズの「Everybody Loves the Sunshine」といった曲は、この時期に改めて脚光を浴びた名曲である。いずれも、ブラック・ミュージックに宿る「グルーヴ」の粘性を再認識させるものであり、後のアシッドジャズ・アーティストたちにとっても聖典的な楽曲であった。

クラブ「ディングウォールズ」とDJ文化の進化

アシッドジャズ前夜のもう一つの重要な舞台が、ロンドン北部カムデンにあるクラブ「ディングウォールズ」である。1970年代から存在していたこのライブハウスは、80年代後半にDJジャイルス・ピーターソンとクリス・バングスによって「Talkin’ Loud and Sayin’ Something」という日曜午後のイベントが開催されるようになり、一躍新しい音楽ムーヴメントの中心地となった。

このイベントの特徴は、DJがジャズやファンク、ラテンなどの生音系のレコードをつなぎながらも、あくまで“ダンスフロア”を意識していた点にある。つまり、これまで静かに鑑賞されていたジャズが、「踊るための音楽」として再機能し始めた瞬間であった。

ここで重要なのが、当時のロンドンにおけるクラブ文化の「知的化」である。ヒップホップやハウスといった新興ジャンルの影響も受けつつ、DJたちはBPMやキーだけでなく、サウンドの質感やコンセプトによって曲をつなぎ、ナラティブ(物語)を作ることに長けていた。ギレス・ピーターソンはこの手法を「ジャズDJ」と呼び、従来のラジオDJやディスコのDJとは異なる、選曲家=キュレーターとしての在り方を体現していた。

ジャズ・ファンクの再来とスタイルとしてのグルーヴ

1980年代後半のロンドンでは、音楽的には過去の遺産の再利用、文化的にはアフリカ系・カリブ系移民たちの音楽文化の融合が進んでいた。スライ・ストーン、ハービー・ハンコック、ザ・ブラックバーズといった1970年代のジャズ・ファンク、あるいはソウル・ファンクバンドが、アンダーグラウンドな形で再評価され、それがDJたちの選曲リストに組み込まれていった。

このような中、あえてジャンルを定義せず、“スタイル”としての音楽を追い求める姿勢が生まれる。言い換えれば、ジャンルの枠を超えた「グルーヴ」そのものが目的化されたのだ。この文脈で注目されるのが、ディー・ディー・ブリッジウォーターの「Bad for Me」、ラムゼイ・ルイスの「Sun Goddess」といった、ジャズとファンクのクロスオーバー作品である。これらの楽曲は、複雑な和声と黒いグルーヴが共存する、アシッドジャズ的感性の先駆となった。

クラブと知的探究の場としての共存

当時のロンドンのクラブは、単なる娯楽の場ではなかった。そこは、黒人文化の誇りや政治性、そして音楽に対する知的探究心が交差する場でもあった。特にジャイルス・ピーターソンの活動はその象徴的存在であり、彼の選曲には常に「教育性」が含まれていた。知られざるブラジル音楽、ナイジェリアのアフロビート、アメリカのスピリチュアル・ジャズ。彼のミックスの中では、そうした“知識”が無理なく身体に浸透するようにデザインされていた。

例えば、ファラオ・サンダースの「You’ve Got to Have Freedom」がフロアで爆発的に盛り上がるようになったのも、この時期である。それは、アフロ・スピリチュアルな要素がクラブミュージックとして再解釈された瞬間でもあった。知性と身体性が、ジャズという言語の中で交差し、新たな表現形式を獲得しつつあった。

小さな革命の始まり

アシッドジャズという言葉が誕生するのは1988年、クリス・バングスのジョーク混じりのコメントがきっかけであったと言われている。「これはアシッドハウスじゃない、アシッドジャズだ」という言葉が、ジャンル名として定着することになったのである。だが、その背景には、上記のような音楽的再評価とDJ文化の進化、そして多文化的ロンドンの地政学的土壌があった。

アシッドジャズ前夜とは、ジャンルがまだ名前を持たず、ただ「良い音楽」として機能していた時代である。人々はその名前のない音楽に、純粋な好奇心と身体の欲求で向き合っていた。ここにこそ、アシッドジャズというジャンルが本質的に持つ雑種性と寛容性のルーツがあると言えよう。

次回は、Acid Jazz Recordsの設立を中心に、「アシッドジャズ」という言葉がどのようにしてひとつの音楽ムーヴメントへと昇華していったのかを紐解いていく。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。

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