[音楽語源探偵団]Vol.5:「ドレミファソラシド」は誰が発明したのか ── 音楽教育を変えた中世のイノベーター

私たちが何気なく口にする「ドレミファソラシド」という音の並び。その響きは幼いころから耳に馴染み、歌の基本として広く浸透している。しかし、この音階表現がどこから来たのか、誰が言い始めたのかを知る人は少ない。本稿では、この「ドレミファソラシド」の起源をたどり、中世ヨーロッパの音楽教育に革命をもたらしたひとりの修道士、グイド・ダレッツォに光を当てたい。

口伝の限界と、修道院の教育現場

時は11世紀。ヨーロッパの音楽はまだ記譜法も曖昧で、楽譜と呼べるものは口伝を補助する程度のものであった。特にグレゴリオ聖歌は修道士によって暗記され、世代から世代へと伝えられていた。しかし、音程や旋律を正確に伝えるのは困難であり、教える側も学ぶ側も多くの時間と労力を費やしていた。

このような非効率的な音楽教育の現場に現れたのが、イタリアのアレッツォの修道士グイドである。彼は音楽教師として、より合理的に音楽を教える方法を模索していた。

革命的な記憶法:聖歌から生まれた音階

グイドが編み出したのは、「階名」と呼ばれるシステムだった。彼は「Ut queant laxis」という聖ヨハネを讃える賛歌に注目する。この聖歌の冒頭フレーズの各行は、それぞれ一音ずつ高くなる構造を持っていた。以下がその一部である:

  • Ut queant laxis
  • Resonare fibris
  • Mira gestorum
  • Famuli tuorum
  • Solve polluti
  • Labii reatum

それぞれのフレーズの最初の音が「Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La」となっており、これがグイドによる6音の階名体系、いわゆる「ヘクサコード」の基礎となった。彼はこの6音を用いて歌唱指導を行い、音高の感覚を直感的に伝えることに成功する。

この方法の画期性は、音楽が感覚的なものから、視覚的・理論的に学べるものへと変化したことにある。それまでの「耳で盗む」ような教育から、「見て覚える」学習へのシフト。それは、教育そのものの転換でもあった。

「グイドの手」と視覚化の力

加えて、グイドは音の位置を覚えやすくするために、「グイドの手(Manus Guidonis)」と呼ばれる記憶術を考案した。これは手の各関節に音を割り当て、生徒が指を指しながら音を学ぶという方法である。この画期的な手法により、音楽の学習は一気に体系化され、多くの修道院で採用されるようになった。

Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=631211

グイドの手は、視覚と身体感覚を連動させることで、音の相対的位置を直感的に理解させた。これは今日の視唱(ソルフェージュ)におけるジェスチャーや階名指導の源流ともいえるだろう。

さらに興味深いのは、グイドの手が中世ヨーロッパにおける記憶術の発展と共鳴していた点である。記憶術は当時、書物の複製や保存が困難だった社会において極めて重要なスキルだった。グイドはその知識を音楽教育に応用し、記憶と音感を一体化する教育法を築き上げたのである。

「Ut」が「Do」に変わるまで

グイドが使った最初の音は「Ut」であったが、のちにこの言葉は「Do」へと置き換えられる。理由はいくつかある。まず、「Ut」は発音しにくく、他の音名と比べて滑らかさに欠けていた。また、「Do」は「Dominus(主)」に由来するとされ、宗教的意味も込められていた。

この変更は17世紀のイタリアで定着し、現在の「ドレミファソラシ」の形が完成する。そして、さらに「Si(後のTi)」が加わり、7音の体系が整うことになる。なお「シ」は聖ヨハネ(Sancte Ioannes)の頭文字を組み合わせたものであるとされている。

興味深いのは、イギリスなど一部の国では「Si」ではなく「Ti」が使われる点である。これは「S」と「Sol」の混同を避けるためとされている。ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の「ドレミの歌」で「Ti, a drink with jam and bread(ティー、ジャムとパンの飲み物)」と歌われるのも、そうした英語圏特有の習慣による。

世界共通ではない「ドレミ」

ここで注意したいのは、「ドレミ」は世界共通の音名ではないということだ。英語圏では「C, D, E, F, G, A, B」というアルファベットで表現される。これらは「音名(absolute names)」であり、ドレミは「階名(movable names)」として機能する。つまり、ドレミは音楽の相対的な位置関係を示すものであり、移動ド唱法などに用いられる。

この違いは、教育法にも大きく影響を与えている。例えば、ヨーロッパのソルフェージュ教育では階名による訓練が重視される一方、英米圏では絶対音名による指導が中心となる。日本の音楽教育はその中間的な位置にあり、義務教育では階名が用いられるが、専門教育では絶対音名も重視される。

加えて、東アジアには独自の音階観が存在する。例えば中国の「工尺譜」や日本の「都節音階」など、西洋音楽とは異なる体系が長らく用いられてきた。「ドレミ」の普及は、西洋音楽の制度が世界標準として広がっていく近代以降の文化的影響の現れでもある。

ドレミの「文化的重層性」

「ドレミファソラシド」は、単なる音階のラベルではない。宗教、記憶術、教育、言語、発音の快適さ、そして時代背景が複雑に絡み合った、多層的な文化遺産なのである。

それはまさに「文化記号」としての音名だ。たとえば「レ」の語源は「Resonare=響き渡る」、「ミ」は「Mira=驚くべき」など、それぞれが賛歌の中で意味を持っている。こうした意味を知ることで、我々が普段何気なく使う音名にも、詩的で象徴的な深みが加わる。

さらに、映画やアニメ、ゲームなど、ポップカルチャーの文脈でも「ドレミ」は象徴的に使われる。例えば『サウンド・オブ・ミュージック』や、日本のテレビ番組『ドレミファどーなっつ!』など、「ドレミ」は単なる音名を超え、音楽的原風景や教育の象徴として、多くの人の記憶に残っている。

また現代の音楽療法や幼児教育でも、「ドレミ」は感覚や情緒と直結する道具として活用されている。階名の歌唱は脳の言語中枢と音楽中枢の橋渡しを助けるとも言われ、教育現場だけでなく、医療や福祉の現場にもその効能は広がっている。

中世の知恵が今も息づく

グイド・ダレッツォのアイデアは、1000年近くを経た現代においても生き続けている。「ドレミファソラシド」は、単なる音の並びではなく、教育と記憶、宗教と科学、そして感覚と言語の交差点に生まれた文化遺産なのである。

彼の試みは、音楽をより多くの人に開かれたものにし、学びのハードルを下げた。それはまさに、教育におけるイノベーションの原点とも言えるだろう。

響き続ける知恵の音階

音楽の基本にある「ドレミファソラシド」という響き。それは単なる音の名ではなく、人間の知恵と工夫の結晶であり、1000年前の修道士のまなざしと、私たちの毎日の中にある小さな歌とを、静かに結んでいるのである。

その一音一音に、かつての学びの情景があり、知を伝える工夫があり、世界をつなぐ文化の力が宿っている。そう考えると、私たちが今日も耳にする「ドレミ」は、決して過去の遺物ではなく、未来へと響き続ける音楽の言語なのだ。

※本コラムは筆者の見解であり、諸説あります

Shin Kagawa:音楽の未来を自由に妄想し続ける、型破りな音楽ライター。AI作曲家による内省的なポップや、火星発のメロウ・ジャングルといった架空の音楽ジャンルに心を奪われ、現実逃避と未来の音楽シーンを行き来しながら執筆を続ける。幻想的なアイデアと現実のギャップを楽しむ日々の中で、好きな映画は『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。

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