[音の地球儀]第25回 ── 歌われる大地:アボリジニのソングラインと、世界を歩いて保つ音楽

民族音楽は、その土地の暮らしや風土、信仰、歴史を音に刻み込んだ、人類の“声”である。電子音が世界を席巻する今もなお、世界各地には太鼓や笛、声と手拍子だけで継承されてきた音楽文化が息づいている。この連載では、アフリカのサバンナからアジアの山岳地帯、南米の密林から極北のツンドラ地帯まで、世界中の知られざる民族音楽を訪ね歩く。単なる紹介にとどまらず、その背景にある文化や物語にも光を当て、音楽を通じて世界をより深く知る旅へと誘う。音の地球儀を、いま一緒に回しはじめよう。

もしも「地図」が歌でできていたとしたら。
もしも「歩くこと」が音楽行為だったとしたら。
もしも「世界」が、歌い継がれることでのみ存在し続けるものだとしたら。

オーストラリア先住民アボリジニの音楽思想──ソングライン(Songlines)は、こうした仮定を比喩ではなく、現実のものとして提示する。そこでは音楽は表現でも娯楽でもない。大地そのものを成立させるための行為である。

ソングラインとは「歌われた地図」である


ソングラインとは、アボリジニ社会における聖なる歌の連なりであり、同時に大地を横断する不可視の道である。それは祖先存在がドリームタイム(神話的な世界創成の時代)に歩いた軌跡であり、その足取りが歌として残されたものだ。

山、岩、水場、砂漠、動物の生息地──それらはすべて、特定の旋律やリズム、言葉と結びついている。人はその歌を正しい順番で歌いながら歩くことで、迷うことなく土地を横断できる。

つまりソングラインとは、「地図」であり、「神話」であり、「歴史」であり、「法律」であり、そして「音楽」なのである。

この音楽を聴くとき、私たちは“美しい旋律”を探すべきではない。聴くべきなのは、音が進んでいく方向である。

音楽は世界を再生するためにある

アボリジニの世界観において、世界は一度作られて終わったものではない。それは常に崩壊の可能性を孕み、歌われ続けることでかろうじて保たれている。

ソングラインを歌い継ぐことは、単なる文化継承ではない。それは、祖先が創った世界を再びなぞり、再起動する行為である。

歌が忘れられれば、その土地は意味を失う。意味を失った土地は、やがて世界から剥落する。

この思想は、第24回で扱ったアマゾン先住民音楽と深く共鳴する。森で音が鳴らされなくなれば、森そのものが壊れていく──アボリジニにとっても同じなのだ。

ディジュリドゥは「大地の呼吸装置」である

アボリジニ音楽を代表する楽器のひとつ、ディジュリドゥ。ただし、その分布はオーストラリア北部(アーネムランドやクイーンズランド北部など)の文化圏に伝わる楽器であり、すべてのアボリジニ社会に共通するわけではない点には注意が必要だ。

ディジュリドゥは低く持続するドローン音を基盤としながら、奏者は循環呼吸によって音を途切れさせることなく鳴らし続ける。さらに声を重ねるコール奏法や倍音の操作によって、単純な単音とは異なる複雑な音響空間が生み出される。それは旋律を追うのではなく、倍音に満ちた持続音として空間を満たす楽器だ。

この音はある種の文化的解釈においては、大地の振動を人間の身体に通すための管として語られることがある。演奏者は呼吸を通じて土地と接続し、循環呼吸によって途切れることなく続く音は、時間を前進させるのではなく、今という瞬間を引き延ばす──とされる。

声は物語ではなく、軌跡をなぞる

アボリジニの歌は、感情を語らない。そこに自己表現はない。あるのは、祖先の動きを正確になぞるための音程とリズムだ。歌い手は表現者ではなく、歩行者である。声は感情の放出ではなく、地形を記憶するための道具だ。

この感覚は、西洋音楽における「歌=自己の内面表現」という価値観を根底から揺るがす。アボリジニにとって歌とは、自分を消し、世界をなぞる行為なのだ。

リズムは歩幅であり、時間ではない

アボリジニ音楽のリズムは、拍子ではなく歩行のテンポから生まれているとも語られる。一定でありながら揺らぎ、乾いた空気の中で間が強調される。

それは時間を刻むためのリズムではない。空間を移動するためのリズムである。

クラップスティックの打撃は足音であり、ディジュリドゥのドローンは地平線の持続だ。音楽は、移動と不可分なのだ。

伝統は固定されていない

アボリジニ音楽もまた、「失われゆく文化」として語られがちだ。しかし実際には、ソングラインは今も歌われ、更新されている。

現代アボリジニ・アーティストたちは、伝統的なリズムや言語をポップミュージックやロック、エレクトロニクスと接続しながら、新たな形で世界に提示している。

ここで行われているのは、伝統の破壊ではない。歌を現代に歩かせる行為だ。歩くこと、歌うこと、世界であること。ソングラインが教えてくれるのは、音楽の定義そのものなのだ。音楽とは、誰かに聴かせるためのものではない。音楽とは、世界を保つために鳴らされるものなのだ。

アマゾンでは森が歌われ、オーストラリアでは大地が歌われる。湿潤な密林と、乾いた砂漠。音の密度も、響きも、まったく異なる。しかし両者は同じ場所を指し示している──人間は世界の中心ではない。音を鳴らすことで、かろうじてその一部として存在している。

アボリジニの音楽は、そう静かに告げている。

Sera H.:時代を越える音楽案内人/都市と田舎、過去と未来、東洋と西洋。そのあわいにいることを好む音楽ライター。クラシック音楽を軸にしながら、フィールド録音やアーカイブ、ZINE制作など多様な文脈で活動を展開。書くときは、なるべく誰でもない存在になるよう心がけている。名義の“H”が何の頭文字かは、誰も知らない。

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