
民族音楽は、その土地の暮らしや風土、信仰、歴史を音に刻み込んだ、人類の“声”である。電子音が世界を席巻する今もなお、世界各地には太鼓や笛、声と手拍子だけで継承されてきた音楽文化が息づいている。この連載では、アフリカのサバンナからアジアの山岳地帯、南米の密林から極北のツンドラ地帯まで、世界中の知られざる民族音楽を訪ね歩く。単なる紹介にとどまらず、その背景にある文化や物語にも光を当て、音楽を通じて世界をより深く知る旅へと誘う。音の地球儀を、いま一緒に回しはじめよう。
かつて遊牧民たちは、馬の背に乗って草原を駆け、歌と物語を紡ぎながらユーラシアの大地を旅していた。中央アジア、キルギス共和国 ── この国には、自然と共に暮らす人々が持つ”語る音楽”の伝統がいまも息づいている。馬頭琴にも似た撥弦楽器「コムズ」、霊的とも言える倍音唱法、そして鉄と息遣いで宇宙を奏でる小さな楽器「口琴(テミル・コムズ)」──。今回は、キルギスの音の風土に刻まれた叙事と宇宙的想像力の軌跡をたどる。
山と草原の叙事詩 ── マナスと吟遊詩人たち
キルギスの音楽文化を語る上で外せないのが、「マナス叙事詩」である。数十万行におよぶ世界最大級の口承叙事詩で、民族の英雄マナスとその一族の物語が、何世代にもわたって吟遊詩人(マナスチ)によって語り継がれてきた。
マナスチは、暗記や朗読ではなく、霊感に導かれるように即興で語る。彼らはしばしば半分トランス状態で物語を語り、音階の抑揚やリズムの変化を用いて登場人物の感情や場面の変化を描く。これはまさに「音楽」と「語り」の境界が溶け合う表現形態であり、中央アジアにおける音と言葉の交差点である。
現在でも各地でマナス朗唱コンテストが行われており、若い世代がこの伝統を受け継いでいる。音楽は静的な遺産ではなく、語りの中で今なお生きている。
コムズ ── 手のひらに宿る遊牧の記憶
キルギスを代表する楽器が、木製の三弦撥弦楽器「コムズ(komuz)」である。ギターや琵琶と違い、フレットがないため、微細な音の揺らぎや装飾が自由に表現できる。奏者は、弦を爪弾くだけでなく、楽器のボディを叩いたり、弦の間を指でこすったりと、打楽器的な要素を加える。
コムズの音楽は、風の音や馬のひづめ、遠くの雷鳴を模倣することも多く、大自然とともに生きる遊牧民の感性が色濃く表れている。音階は五音音階(ペンタトニック)を基調としており、東アジアやモンゴル系の旋律感とも共鳴する。
倍音で語る身体 ── ホーミーと喉歌の風景
モンゴルやトゥヴァと同様に、キルギスでも倍音唱法(ホーミー)が存在する。これは一人の人間が同時に複数の音を発する技法で、地鳴りのような低音と、上空を舞うような高周波が同時に鳴るというもの。
この唱法は、儀礼や祈祷の場面でも用いられ、聖と俗の間をつなぐ音として重視されてきた。身体が楽器となることで、歌い手は大地や風と一体化し、言葉にならない記憶や感覚を”音の流れ”として伝える。
現代では、倍音唱法と電子音楽を融合させるアーティストも登場し、伝統が新たな地平を拓いている。
テミル・コムズ ── 口琴が鳴らす銀河のうた
小さな金属片が、宇宙の扉を開く──口琴(テミル・コムズ、またはオーズ・コムズ)は、キルギスの音楽文化において特異な存在感を放つ。口にあてて弾くこの小さな楽器は、倍音の揺らぎと身体の共鳴によって、まるで風や川の音を思わせる神秘的な響きを奏でる。
テミル・コムズは、かつて主に女性や子供によって演奏されてきたが、現在では性別を問わず演奏される。古来、恋愛の思いを伝えるための私的な音楽としても親しまれてきた。いっぽうで、神霊との交信や自然との対話にも用いられることがあり、テミル・コムズの音色はしばしば「魂の音」とも称される。
近年では、テミル・コムズとエレクトロニカやアンビエント音楽を融合させる動きもあり、伝統楽器の可能性が新たに開かれている。
音楽と国家 ── ポスト・ソ連時代の文化復興
ソ連崩壊後、キルギスではアイデンティティの再構築が大きな課題となった。その中で音楽は、単なる娯楽や伝統の継承以上の役割を果たしてきた。民族楽器教育の復興、国際フェスティバルへの参加、若手アーティストの育成などを通じて、音楽は文化政策の要として位置づけられている。
特に注目すべきは、伝統音楽を継承しつつ、新しいジャンルへと展開する動きである。たとえば、口琴とヒップホップを掛け合わせる若手グループ、電子音響とマナス朗唱を融合する現代音楽ユニットなどが登場し、”語り”の形式が更新されている。
これにより、キルギス音楽は単なる「フォークロア」ではなく、未来に向けた創造的表現として、世界に存在感を示しはじめている。
結び ── 語りと音の地平で広がる草原の宇宙
キルギスの音楽は、「語る」ことと「奏でる」ことの境界を曖昧にしながら、記憶と土地と身体をつなぎとめてきた。馬とともに移動する暮らし、火を囲んで聞いた物語、風に揺れる弦の音──それらがすべて、音となって今も息づいている。
テミル・コムズが奏でる微細な振動、コムズの撥ねる弦、マナスチの叫びとささやき。そこには、中央アジアの風景だけでなく、人間の深層に潜む「語りたいという衝動」が宿っている。
「音の地球儀」は、またひとつの声に耳を澄ませる。そこには、遥かなる草原の果てから届く、宇宙的な音のメッセージが確かに鳴っている。

Sera H.:時代を越える音楽案内人/都市と田舎、過去と未来、東洋と西洋。そのあわいにいることを好む音楽ライター。クラシック音楽を軸にしながら、フィールド録音やアーカイブ、ZINE制作など多様な文脈で活動を展開。書くときは、なるべく誰でもない存在になるよう心がけている。名義の“H”が何の頭文字かは、誰も知らない。







