
民族音楽は、その土地の暮らしや風土、信仰、歴史を音に刻み込んだ、人類の“声”である。電子音が世界を席巻する今もなお、世界各地には太鼓や笛、声と手拍子だけで継承されてきた音楽文化が息づいている。この連載では、アフリカのサバンナからアジアの山岳地帯、南米の密林から極北のツンドラ地帯まで、世界中の知られざる民族音楽を訪ね歩く。単なる紹介にとどまらず、その背景にある文化や物語にも光を当て、音楽を通じて世界をより深く知る旅へと誘う。音の地球儀を、いま一緒に回しはじめよう。
南太平洋の島々に点在するメラネシア ── そこは文字よりも「声」と「リズム」で記憶が伝えられる場所。なかでもバヌアツ共和国には、世界でも稀有な音楽文化が存在する。浅瀬に立ち、水面を打って響かせる“ウォーター・ドラム”、声で語り継がれる祖霊の歌、そして豊饒と死を祝うダンスと仮面。今回は、海と陸のあいだで生まれた音楽の神秘、そして女性たちが守り伝える水のリズムに耳を澄ませてみよう。
海の上の文化圏 ── メラネシアという地図
メラネシアとは、「黒い島々」という意味をもつギリシャ語起源の呼称で、パプアニューギニア、ソロモン諸島、フィジー、そしてバヌアツなどを含む地域を指す。民族・言語・宗教・音楽、すべてにおいて驚くべき多様性を内包し、島から島へと舟で移動する文化圏でもある。
なかでもバヌアツは、100を超える言語が使われる世界屈指の多言語国家であり、音楽的にも“共有されながら個性的”という不思議な状態を保っている。ここでは、仮面舞踊と祭礼音楽、水と声の芸術が、今なお日常のなかに息づいている。
水を叩く ── ウォーター・ドラムという奇跡
バヌアツのガウア島などでは、女性たちが川辺や浅瀬に立ち、水面を手で打ち鳴らす「ウォーター・ドラム(Water Music)」という音楽を奏でる。
一見、ただの水遊びにも見えるが、そのパターンには複雑なリズム構造があり、村や家系によって異なる”音の方言”があるとさえ言われる。手の角度や打ち方、身体の姿勢によって音が変わり、拍や小節というよりも”うねり”で構成される。
この水の音楽は、男性たちが鼓舞する戦いの踊りとは対照的に、日常の喜びや祝祭、女性の連帯の象徴として機能してきた。現在も、若い女性たちがTikTokやYouTubeを通じてその技法を発信しており、伝統とデジタルが交差する場ともなっている。
声の神話 ── 語り歌と祖霊の記憶
バヌアツの音楽の多くは、文字を持たない社会のなかで「記憶装置」として機能してきた。語り歌(エピック・チャント)と呼ばれるジャンルでは、村の起源、神話、戦いの記録などが、一定の旋律とリズムに乗せて暗唱される。
こうした語り歌は、声の抑揚やリズム、繰り返しによって情報を保持する。旋律よりも、音高と抑揚の「型」が重要で、聞き手はその変化から文脈を読み取る。
ときには、死者の霊が夢に現れ、その言葉を歌に託すという信仰もあり、音楽は人間と霊界をつなぐメディアでもあった。
仮面と踊り ── 身体が音になる瞬間
バヌアツ各地では、伝統的な仮面舞踊が存在する。これは主に男性が執り行う儀式で、祖霊を象った巨大な仮面を身につけ、パーカッシブなリズムに乗せて踊る。
衣装に付けられた貝殻や木の実が打ち鳴らされ、身体そのものが打楽器のような存在になる。舞踊には物語性があり、動きの一つ一つに意味がある。まさに「身体が語り、音が踊る」瞬間だ。
このような仮面舞踊もまた、現代では観光やフェスティバルの場で披露されることが増えたが、その深層には今も霊的な世界観が息づいている。
現代のバヌアツ ── 伝統と都市のあいだで
バヌアツの首都ポートビラでは、ウォーター・ミュージックや仮面舞踊といった伝統音楽を現代の文脈で再解釈しようとする動きも見られる。伝統の打楽と現代音楽を融合させる試みや、語り歌を新しい表現形式で伝えようとする若者たちの姿もある。
また、音楽によって環境問題(海面上昇やマングローブの保護)への意識を高めようとする取り組みも行われている。音楽は単なる伝統保存ではなく、「未来へのコミュニケーション」として再生産されているのだ。
結び ── 波とともに歌うということ
水を打つ手、声を重ねる息、身体をゆだねる踊り──そのどれもが、バヌアツという土地の自然と共鳴している。言葉が届かないところにこそ音があり、文明の喧騒から遠い場所でこそリズムが生まれる。
バヌアツの音楽は、いわゆる「音階」や「拍子」とは違う原理で動いている。海のリズム、風の間合い、沈黙の呼吸。それは、楽譜に書かれることのない“もうひとつの音楽”である。
私たちが耳を澄ませることで、忘れられていた水の声が再び立ち上がるかもしれない──バヌアツの音は、今も海とともに息づいている。

Sera H.:時代を越える音楽案内人/都市と田舎、過去と未来、東洋と西洋。そのあわいにいることを好む音楽ライター。クラシック音楽を軸にしながら、フィールド録音やアーカイブ、ZINE制作など多様な文脈で活動を展開。書くときは、なるべく誰でもない存在になるよう心がけている。名義の“H”が何の頭文字かは、誰も知らない。