
民族音楽は、その土地の暮らしや風土、信仰、歴史を音に刻み込んだ、人類の“声”である。電子音が世界を席巻する今もなお、世界各地には太鼓や笛、声と手拍子だけで継承されてきた音楽文化が息づいている。この連載では、アフリカのサバンナからアジアの山岳地帯、南米の密林から極北のツンドラ地帯まで、世界中の知られざる民族音楽を訪ね歩く。単なる紹介にとどまらず、その背景にある文化や物語にも光を当て、音楽を通じて世界をより深く知る旅へと誘う。音の地球儀を、いま一緒に回しはじめよう。
ヨーロッパのあらゆる場所で聞こえる、しかしどの国家にも属さない音楽 ── それがロマ(通称ジプシー)の音楽である。インド北部から中東を経て、何世紀にもわたってヨーロッパ各地へと流浪してきた彼らの文化は、多様な土地の音を取り入れながらも、決して同化されることはなかった。今回は、スペインのフラメンコからバルカン・ブラス、ジプシー・ジャズまで、「周縁にいる者たち」が紡いできた情熱と哀愁の音楽をたどる旅へ出よう。
国境を持たぬ音楽の旅
ロマ(Roma)とは、インド北西部を起源とする移動民族であり、その歴史は長く、そしてしばしば記録されずに語り継がれてきた。ヨーロッパでは「ジプシー(Gypsy)」という呼称が一般的だが、これは誤って「エジプトから来た者たち」とされたことに由来する。今日では差別的な響きを帯びる場合もあり、文化的には「ロマ音楽(Roma music)」という呼び名が用いられることが多い。
移動の過程で、ロマは西へ西へと足を進め、バルカン半島を中心に、スペイン、フランス、ハンガリー、ルーマニア、ロシアなど、各地に散らばった。そしてそのたびごとに、土地の音楽と交わり、自らの旋律を変化させていった。
ロマ音楽に共通する特徴は、強烈なエモーション、即興性、リズムの躍動、そして声や楽器を通して語られる「語り」の精神である。それは、書き記された歴史ではなく、歌い継がれた記憶として伝えられてきた。
スペインのアンダルシア ── フラメンコに宿るロマの声
ロマ音楽の最も有名な結晶の一つが、スペイン・アンダルシア地方で生まれた「フラメンコ」である。19世紀以降、スペイン南部では、アラブ音楽、ユダヤ音楽、スペイン民謡などが交差するなかで、ヒターノ(スペイン系ロマ)が中心となって形成していった。
フラメンコは、カンテ(歌)、トケ(ギター)、バイレ(踊り)という三位一体で構成されるが、その核心は「カンテ」にある。たとえば、カマロン・デ・ラ・イスラや Enrique Morente のカンテには、ロマ的な「叫び」が込められており、それは喜びよりもむしろ苦悩と誇りを表現するものである。
ギターやパルマ(手拍子)、ザパテアード(足踏み)といったリズム表現も、ロマの複雑なリズム感覚から派生しており、即興の要素を強く残している。
ハンガリーとルーマニアのヴァイオリン文化
東ヨーロッパに目を向ければ、ハンガリーやルーマニアにおけるロマ音楽の隆盛が見えてくる。ここでは、ヴァイオリンとツィンバロム(打弦楽器)が主役となり、演奏者たちは高度な技巧と感情表現を融合させる。
たとえば、ルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスは、村の音楽家集団として知られ、伝統的な旋律と現代的なスピード感を併せ持つ演奏で、世界中に衝撃を与えた。
ハンガリーのロマ音楽家たちは、クラシック音楽にも影響を与え、リストやバルトークといった作曲家たちは、彼らの音楽を採譜し、作品に取り入れている。これらの音楽は、民族音楽と芸術音楽の境界をも超えているのだ。
バルカン・ブラス ── 祝祭と抵抗のサウンド
旧ユーゴスラビア圏を中心に根づくのが「バルカン・ブラス」と呼ばれる祝祭音楽である。トランペット、チューバ、サックス、ドラムなどの管楽器が炸裂するこの音楽は、主に結婚式や宗教的儀礼、葬儀などで演奏される。
バルカン・ブラスの象徴的な存在が、セルビア系ロマのボバン・アンド・マルコ・マルコヴィッチ・オーケストラやファンファーレ・チョカルリアである。彼らはジャズ、ファンク、ラテンなどの要素を飲み込みながら、激しいリズムと涙腺を刺激する旋律で観客を沸かせる。
この地域では音楽はしばしば政治的でもあり、民族対立やマイノリティ差別への抵抗の象徴としてロマ音楽が奏でられてきた。
ジプシー・スウィング ── ジャンゴ・ラインハルトの革命
ロマ音楽は、20世紀初頭のフランスでも大きな革新を起こす。ベルギー出身のロマ音楽家ジャンゴ・ラインハルトは、ギター1本でジャズを再構築した存在である。
彼が生み出した「ジプシー・スウィング」は、3拍子系のシンコペーション、情熱的なソロ、そしてコード進行の奇妙な跳躍などを特徴とし、今日まで多くのフォロワーを生んでいる。
ロマ音楽は、こうして都市と田舎、過去と未来、西洋と東洋を自在に往復する音楽であり続けている。
周縁の音楽が中心へ ── 継承と革新
21世紀に入り、ロマ音楽は再評価されている一方で、ステレオタイプの助長や商業的利用の問題も浮かび上がってきている。伝統を尊重しながら現代性を導入する若手も登場しており、たとえばフランスのローゼンバーグ・トリオや、マケドニア出身のエスマ・レジェポヴァ(故人)らがその代表だ。
また、Netflixなどで注目されたバルカン音楽ドキュメンタリーや、フェスティバル(例:Guca Trumpet Festival)を通じて、世界的な人気も高まっている。
結び ── 音楽は、どこにも属さず、すべてに染まる
ロマ音楽は、どこの国の「もの」でもない。それは、移動のなかで生まれ、迫害の中で耐え、祝祭の中で輝き、そしていまも多くの人々の心を揺さぶり続けている。
私たちがこの音楽に惹かれるのは、ただ美しいからだけではない。そこに、根を持たぬ者たちの誇りと自由の精神が響いているからだ。
「音楽は、国境を持たない」と言うとき、その最前線にロマの音楽がある。次にその旋律を耳にしたとき、あなたはもう、“音の周縁”にいるとは感じないはずだ ── そここそが、音楽の中心なのだから。

Sera H.:時代を越える音楽案内人/都市と田舎、過去と未来、東洋と西洋。そのあわいにいることを好む音楽ライター。クラシック音楽を軸にしながら、フィールド録音やアーカイブ、ZINE制作など多様な文脈で活動を展開。書くときは、なるべく誰でもない存在になるよう心がけている。名義の“H”が何の頭文字かは、誰も知らない。