[連載:音の先へ]第2回:モードの海へ ── “静寂の帝王”の誕生

静寂の先にあったもの

1950年代、ジャズの世界は急速に変化していた。ビバップから生まれた自由な即興演奏が主流を占める一方、音楽はしばしば過剰なテクニックや速さを追い求め、時としてその魅力を失いがちだった。そんな時期に登場したのが、マイルス・デイヴィスの「モード・ジャズ」である。

モード・ジャズとは、従来のジャズにおける複雑なコード進行を取り払い、単純なスケール(モード)を基にした即興演奏を行うスタイルだ。このアプローチは、演奏者にとっては新たな挑戦であり、聴衆にとっても新鮮な体験だった。そしてその音楽の中には、“静寂”の美学が息づいていた。

マイルスは、ジャズの技術的側面において革新を求めるだけでなく、音楽の本質を再定義しようとした。その結果として生まれたのが、彼の代表作『Kind of Blue』だった。このアルバムは、ジャズ史に残る金字塔であり、またマイルス自身を新たな高みへと導く契機となった。

『Kind of Blue』──静寂の美学

1959年、マイルス・デイヴィスは、モード・ジャズの真髄を体現したアルバム『Kind of Blue』を発表する。この作品は、ジャズの歴史の中でも最も影響力のあるアルバムの一つとして名を馳せている。『Kind of Blue』の特徴的な点は、そのシンプルさと自由さにあった。従来のジャズが多くのコード進行や変則的なリズムに頼るのに対して、『Kind of Blue』はモード(音階)を基盤に、より直感的で自然な流れの演奏を追求していた。

アルバムの冒頭を飾る「So What」は、その象徴的なトラックであり、ビバップの速さや複雑さを完全に排除した曲だ。曲の進行は、「ドリアン・モード」という単純なスケールに基づいており、それをもとに各メンバーが即興演奏を行っている。しかしその演奏には、ただの自由な即興にとどまらない深い静寂と瞑想的な美しさが存在していた。

このアルバムを通じて、マイルスは音楽における「隙間」や「間(ま)」の重要性を再確認し、「静寂の帝王」とも呼ばれるようになった。その静けさには、彼が自身の音楽に対して抱いていた深い思索と、何かを伝えるために敢えて音を削る潔さが込められていた。

静寂と即興の融合

『Kind of Blue』が示したように、マイルスのモード・ジャズの特徴は、“自由な即興と静寂の融合”にあった。音楽において最も重要なのは、音を出すことだけではない。むしろ、音と音の間に生まれる空間こそが、リスナーに最も強い印象を与えることがある。

マイルス自身、演奏において「音を出すことよりも、音を出さないことの方が重要だ」と語っている。その言葉通り、彼のトランペットには常に余白があり、その中で音楽が息づいていた。リズムやメロディがシンプルでありながらも、演奏者が即興で表現する豊かな感情の波紋が広がる。それがモード・ジャズの魅力であり、特に『Kind of Blue』ではその感覚が極まったと言える。

このアルバムで共演したメンバーもまた、マイルスに深く影響を受けた面々である。ジョン・コルトレーン(サックス)、ビル・エヴァンス(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、ジミー・コブ(ドラム)など、後にジャズ界で伝説となるようなアーティストたちが、マイルスのビジョンを共有し、共にこの偉大な音楽を作り上げた。

ビル・エヴァンスとモード・ジャズの深化

『Kind of Blue』におけるもう一つの重要な要素は、ビル・エヴァンスのピアノ演奏だ。エヴァンスは、ジャズのハーモニーに革新をもたらしたピアニストとして知られており、彼の演奏はモード・ジャズの魅力をさらに引き立てた。エヴァンスは、和音の間に空間を作り出し、マイルスのトランペットの“余白”を引き立てる役割を担っていた。

特にエヴァンスが使用した“コンピング”(伴奏)は、単に和音を重ねるだけではなく、即興的にリズムやハーモニーを変化させることで、よりリズム的な自由を生み出していた。その結果、マイルスとエヴァンスのやり取りが、演奏全体において非常に対話的で、繊細でありながらも大胆なものとなった。

モード・ジャズがもたらした影響

『Kind of Blue』のリリースから50年以上が経った今でも、その影響は色あせることなく、多くのジャズミュージシャンや他のジャンルのアーティストに受け継がれている。モード・ジャズは、従来のジャズの枠組みを超えて、より自由で表現力豊かな音楽を生み出す可能性を開いた。

また、モード・ジャズは“音楽のメロディ”と“リズム”に対するアプローチを再定義した。その美学は、後に登場するロックやフュージョン、さらにはエレクトロニック音楽にも影響を与えていくことになる。


マイルス・デイヴィスが切り開いたモード・ジャズの世界には、音楽を通じて語りかけてくる“深い静寂”があった。それはただの音楽ではなく、彼の哲学であり、音楽における“空間”の重要性を教えてくれるものであった。音楽における自由な表現の追求が、マイルスをさらなる革新へと導き、彼の名を不朽のものにしたのである。

Jiro Soundwave:ジャンルレス化が進む現代音楽シーンにあえて一石を投じる、異端の音楽ライター。ジャンルという「物差し」を手に、音の輪郭を描き直すことを信条とする。90年代レイヴと民族音楽に深い愛着を持ち、月に一度の中古レコード店巡礼を欠かさない。励ましのお便りは、どうぞ郵便で編集部まで──音と言葉をめぐる往復書簡を、今日も心待ちにしている。

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